2012年6月4日月曜日

信仰


信仰

信仰


<このページをご覧になっているあなたは、

洗礼を受け、クリスチャンになりました (2005/6/26)
 私は本日洗礼を受け、クリスチャンになりました。今は深く静かな喜びを感じております。
 私のように、中年期になった人間がクリスチャンになったと言うと、日本では様々な反応が考えられます。「おめでとう。よかったですね」と喜んでくださる方や、「私は○○教を信じています。時間がある時にゆっくりいろいろとお話しましょう」と会話を発展させようとする方、あるいは「そうですか。いろいろお考えの上でしたらよろしいのではないですか」と静かに受け止めてくださる方もいらっしゃるでしょうが、それはむしろ少数派ではないかとも思います。
 現代日本において多いと私が考える反応は、例えば、「あっ、私は宗教に一切興味がありませんから」と、即座に顔をこわばらせる反応であるとか、しばらく困惑した沈黙が続いた後で「ところで・・・」と、おそるおそる別の話題に移ろうとする反応とか、あるいは「どうしたんですか。よほど辛いことでもあったんですか」とひたすら同情しようとする反応、もしくは(あからさまに表現する人は少ないかもしれませんが)「神を信じるなんて馬鹿じゃないんですか」といった呆れかえった反応、あるいは「この人も終わっちゃったね」といった冷たい無言の反応です。
 いずれにしましても私は大学で教鞭を取っておりますから、その点で、理性的態度・学問・科学と宗教的な信仰というのは矛盾を起こすのではないか、と疑問をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。
 私はこれまで四十年余りの人生を生きてきて様々なことを経験し、学び、感じ、考えてきました。その結果としてクリスチャンとして洗礼を受けることを選びました。理性的態度・学問・科学と宗教的な信仰というのは両立できるものであると考えています。私は全ての人が特定の宗教を信仰する必要があるとまではいいませんが、宗教的であることは、全ての人にとって重要な事柄であるのではないかと思います。(私は同じように、全ての人が特定の政党に属する必要があるとまでは思いませんが、全ての人が政治的であることは重要なことだと思っています。ちなみに私はどの政党にも属していません)。
 ですから、以下に書き連ねることは、私が人生において「宗教的である」ことを重視した結果、私が考え感じるようになったことを書くものです。どうぞ、皆さんがそれぞれのあり方で「宗教的」であることを大切にする上で、参考になる(あるいは反面教師となる)限りにおいて以下の文章をお読みくださればと思います。
 とはいえ私は、信仰生活を始めたばかりの、まだまだ迷える人間です。キリスト教の本質をできるだけ理解し尊重しようとしてはいますが、信仰の深い方から見ればおかしなことを申し上げているかもしれません。その場合は信仰の薄い私のためにお祈りくださった上で、私に直接メールをくださってご助言くださればと思います。キリスト教信仰を全く持たない方、あるいは興味は持っているが洗礼までは受けるつもりのない方からすれば、私が言っていることはまだまだ不可解に思えるかもしれません。その場合も私に直接メールをくださればと思います。
 いずれのメールにも私はすぐにお応えすることができないかと思いますが(なにせこのような文章は勤務を終えた後のわずかな時間か週末にしか書くことはできません)、誠実なメールにはできるだけ誠実にお応えするつもりです。そしてそのことによって、私の信仰が深められる一方、キリスト教徒の方には私を「兄弟」として見出していただければと思いますし、キリスト教徒でない方にはその方の一般的宗教的態度が高まるきっかけになればと思います。従いまして誹謗中傷的なメールや侮蔑嘲弄的なメールなどにはお応えしません。そのようなメールをいただいた場合は、そのようなメールを出さざるを得ない外的・内的状況にある方のために心を込めて神に祈り、その祈りをもって返信とし、メールの返事は一切出さないこと� ��させていただきます。また私のホームページには複数の掲示板(BBS)がありますが、不特定多数の人が読み、気ままに(あるいは衝動的に)何でも書き込みができる掲示板という媒体は、信仰といった、心落ち着けて語るべき話題にはふさわしくないと(少なくとも現在の時点の)私は考えますので、信仰の話題に関して掲示板へ書き込みすることはお控え頂けたらと思います。
 と、前置きがずいぶん長くなってしまいました。そろそろ具体的なお話をした方がよいかと思います。ですが、私は今の時点では一気に私の信仰について語る時間的余裕をもちません(また第一に私の信仰はまだまだ浅いものです)。そこで本日は、私が東広島めぐみ教会で行われた洗礼式で語った信仰告白をここに掲載するだけにしたいと思います。
 この信仰告白を読まれるだけでクリスチャンの方でしたら私の心境をある程度わかってくださるのではないかと思いますが、クリスチャンでない方には私の言っていることには、ずいぶんと論理の飛躍や納得しがたいことがあるかと思います。私自身最近になるまで、宗教的ではあっても特定の宗教は信仰すまい、特定の宗教組織には所属すまい、と思っていましたから、そのような非クリスチャンの方の考えはある程度わかるつもりです。ですが現在、その疑念を全てはらすだけの文章を書く時間も、そもそも力量も私にはありません。ですから、私は以下の文章が皆さんの誤解ではなく理解をもたらすことを祈りつつ、掲載をいたします。舌足らずのところ、また信仰告白以降に考えたり感じたりしたことについては、後日折にふれ� ��書き足してゆきます。



証し

2005年6月26日
柳瀬陽介