2012年6月4日月曜日

信仰


信仰

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洗礼を受け、クリスチャンになりました (2005/6/26)
 私は本日洗礼を受け、クリスチャンになりました。今は深く静かな喜びを感じております。
 私のように、中年期になった人間がクリスチャンになったと言うと、日本では様々な反応が考えられます。「おめでとう。よかったですね」と喜んでくださる方や、「私は○○教を信じています。時間がある時にゆっくりいろいろとお話しましょう」と会話を発展させようとする方、あるいは「そうですか。いろいろお考えの上でしたらよろしいのではないですか」と静かに受け止めてくださる方もいらっしゃるでしょうが、それはむしろ少数派ではないかとも思います。
 現代日本において多いと私が考える反応は、例えば、「あっ、私は宗教に一切興味がありませんから」と、即座に顔をこわばらせる反応であるとか、しばらく困惑した沈黙が続いた後で「ところで・・・」と、おそるおそる別の話題に移ろうとする反応とか、あるいは「どうしたんですか。よほど辛いことでもあったんですか」とひたすら同情しようとする反応、もしくは(あからさまに表現する人は少ないかもしれませんが)「神を信じるなんて馬鹿じゃないんですか」といった呆れかえった反応、あるいは「この人も終わっちゃったね」といった冷たい無言の反応です。
 いずれにしましても私は大学で教鞭を取っておりますから、その点で、理性的態度・学問・科学と宗教的な信仰というのは矛盾を起こすのではないか、と疑問をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。
 私はこれまで四十年余りの人生を生きてきて様々なことを経験し、学び、感じ、考えてきました。その結果としてクリスチャンとして洗礼を受けることを選びました。理性的態度・学問・科学と宗教的な信仰というのは両立できるものであると考えています。私は全ての人が特定の宗教を信仰する必要があるとまではいいませんが、宗教的であることは、全ての人にとって重要な事柄であるのではないかと思います。(私は同じように、全ての人が特定の政党に属する必要があるとまでは思いませんが、全ての人が政治的であることは重要なことだと思っています。ちなみに私はどの政党にも属していません)。
 ですから、以下に書き連ねることは、私が人生において「宗教的である」ことを重視した結果、私が考え感じるようになったことを書くものです。どうぞ、皆さんがそれぞれのあり方で「宗教的」であることを大切にする上で、参考になる(あるいは反面教師となる)限りにおいて以下の文章をお読みくださればと思います。
 とはいえ私は、信仰生活を始めたばかりの、まだまだ迷える人間です。キリスト教の本質をできるだけ理解し尊重しようとしてはいますが、信仰の深い方から見ればおかしなことを申し上げているかもしれません。その場合は信仰の薄い私のためにお祈りくださった上で、私に直接メールをくださってご助言くださればと思います。キリスト教信仰を全く持たない方、あるいは興味は持っているが洗礼までは受けるつもりのない方からすれば、私が言っていることはまだまだ不可解に思えるかもしれません。その場合も私に直接メールをくださればと思います。
 いずれのメールにも私はすぐにお応えすることができないかと思いますが(なにせこのような文章は勤務を終えた後のわずかな時間か週末にしか書くことはできません)、誠実なメールにはできるだけ誠実にお応えするつもりです。そしてそのことによって、私の信仰が深められる一方、キリスト教徒の方には私を「兄弟」として見出していただければと思いますし、キリスト教徒でない方にはその方の一般的宗教的態度が高まるきっかけになればと思います。従いまして誹謗中傷的なメールや侮蔑嘲弄的なメールなどにはお応えしません。そのようなメールをいただいた場合は、そのようなメールを出さざるを得ない外的・内的状況にある方のために心を込めて神に祈り、その祈りをもって返信とし、メールの返事は一切出さないこと� ��させていただきます。また私のホームページには複数の掲示板(BBS)がありますが、不特定多数の人が読み、気ままに(あるいは衝動的に)何でも書き込みができる掲示板という媒体は、信仰といった、心落ち着けて語るべき話題にはふさわしくないと(少なくとも現在の時点の)私は考えますので、信仰の話題に関して掲示板へ書き込みすることはお控え頂けたらと思います。
 と、前置きがずいぶん長くなってしまいました。そろそろ具体的なお話をした方がよいかと思います。ですが、私は今の時点では一気に私の信仰について語る時間的余裕をもちません(また第一に私の信仰はまだまだ浅いものです)。そこで本日は、私が東広島めぐみ教会で行われた洗礼式で語った信仰告白をここに掲載するだけにしたいと思います。
 この信仰告白を読まれるだけでクリスチャンの方でしたら私の心境をある程度わかってくださるのではないかと思いますが、クリスチャンでない方には私の言っていることには、ずいぶんと論理の飛躍や納得しがたいことがあるかと思います。私自身最近になるまで、宗教的ではあっても特定の宗教は信仰すまい、特定の宗教組織には所属すまい、と思っていましたから、そのような非クリスチャンの方の考えはある程度わかるつもりです。ですが現在、その疑念を全てはらすだけの文章を書く時間も、そもそも力量も私にはありません。ですから、私は以下の文章が皆さんの誤解ではなく理解をもたらすことを祈りつつ、掲載をいたします。舌足らずのところ、また信仰告白以降に考えたり感じたりしたことについては、後日折にふれ� ��書き足してゆきます。



証し

2005年6月26日
柳瀬陽介


抑うつを軽減するための祈り
私は高校生の頃から宗教一般には興味を持っていましたが、特定の宗教を信じるつもりはありませんでした。とはいえ様々な折にキリスト教に接するにつれ、キリスト教への関心は高まっていました。しかし一方で、私の人生は、年をおうごとに仕事中心のものとなり、それはやがて健康生活と家庭生活を損なうまでになってしまいました。
 健康面では、2000年の初夏ごろから、仕事のプレッシャーにより軽いうつ病となり、長期にわたる気分の落ち込みや、突然に覚える絶望感、あるいは朝三時ごろに目が覚めてどうしても寝付けなくなる不眠症(早朝覚醒)などで、抗うつ剤と精神安定剤を服用せざるを得なくなりました。家庭の面では、妻とゆっくり話す時間もなくなり、私はますます仕事中心の価値観に染まり、さらにはそれを正当化し、私の人生にとっての最大の隣人ともいうべき妻を心から愛することを怠り始めました。やがてはそのすれ違いから2003年の7月には離婚へと至りました。
 離婚は辛いものでしたが、それでも仕事は続いてゆきます。私は、それまでに得た専門的な知識や経験から、表面上は大過なく仕事を続けることができましたが、私の仕事は、教師という、人を導く仕事です。そういった仕事に求められる自分自身の人生の充実に比べて、私は自分の内面の空虚さにうろたえ、悩み、苦しみました。やがてうつ病はひどくなり、今度はいくら寝ても寝たりずまた疲れが取れない過剰睡眠が続き、職場に行くためにベッドから出るのに一時間も二時間も発作的な激しい呼吸(過呼吸)に苦しまなければならないような目も何度か経験しました。こういった苦しみから逃れるため、薬を増やし、様々な本を読んだり、認知療法と呼ばれるうつ病の自己治癒法も試してみたりしましたが、一進一退で私の心身の� ��しみは続くばかりでした。そこでインターネットで知った東広島めぐみ教会の特別集会に思い切って出てみました。2004年の11月28日のことでした。
 特定の宗教や団体に参加することに警戒心を持っていた私でしたが、教会は明るく開放的で、またそこで出会う人々の目は柔和で澄んでいました。礼拝のメッセージに心安らぐものを感じ、可能な限り日曜日の礼拝に参加するようになりました。それでもしばらくは、まだまだ自分の人生を肯定することができず、また神を信じるなどということは、はなはだ時代錯誤なことなのではないかという疑いもありました。しかし礼拝に通い、共に祈り、教会員の方々ともいろいろと話をし始めたりしているうちに、私の人生に対する否定感は少しずつ消えてゆき、いつしか私は、神を信じている自分を発見していました。教会に行くことは心の平安を感じることとなりました。「罪」とは、完全なる真理と愛の存在である神様から、私たちの� ��が離れてしまうことだと学び、その意味で私も常に罪を犯す「罪人」であることがよくわかりました。
 そうしているうちに、牧師の林先生から「聖書の学び」に誘われました。しかし、私はユダヤ教、イスラム教などとも通じる一神教の神を信仰するようにはなっていましたものの、イエス・キリストへの個人的な感情は持ち得ないままでいました。そこで、ずいぶんと聖書の学びが深まった後でも、「あなたは、イエス様の十字架があなたの罪のためであることを認めますか」という問いに対して、私は「それは実感できない」と正直に答えました。今年2005年の5月12日のことでした。
 そう答えて教会から自転車に乗って帰宅する途中でした。私はまさに不意に「ああっ、イエス様は私のために十字架にかかってくださったのに、私は何ということを言ってしまったんだ」という思いに撃たれました。理屈抜きの突然の実感でした。その後、自転車をこぎ続けながら、私は、この思いは私の錯誤ではないか、思い過ごしではないか、思い込みではないか、勘違いではないかと自問自答を重ねましたが、自らの実感を否定することはできず、帰宅途中に職場に寄って、林先生にそのことをメールで報告しました。
 翌朝、林先生からの返信を読みました。林先生は、私が思いに撃たれたのとほぼ同じぐらいの時間に、林先生も不意に導きを感じて、私のためにお祈りくださっていたことを知りました。私はこの一連の出来事を単なる偶然とはみなしません。神様、イエス様、そして聖霊による恵みだと心から感謝します。これは理屈を超えた実感です。
 現在、正確に言うならこの4月からは、私は全く薬を飲まなくてもうつ病の症状からは解放されています。それどころか、この頃から私は一般に「インスピレーション」と呼ばれるひらめきに、教育や研究の発想でも、また社交の場での冗談などの思いつきでも恵まれています。忙しいのは相変わらずというより、以前以上ですが、心身ともにずたずただった以前からは考えられないぐらいに快活にそして心静かに日々を送っています。
 お寺で除夜の鐘をついた後、神社に初詣に行き、12月にはクリスマスを祝うことが「普通」と見なされる現代日本において、キリスト教への信仰を公けに告白することは、一種はばかられるような雰囲気があります。私もそのような感覚を持っていましたが、そういった感覚は国や時代が異なれば異なるだけのものに過ぎません。また何より、そういった意味での世間への迎合は、「真理」や「愛」といった尽くしきれない概念から私の心を引き離す源の一つになりかねないとも今は考えています。
 したがいまして、私は、今ここに、皆さんの前で、三位一体なる神=イエス・キリスト=聖霊への信仰を告白します。マルコの福音書12章30-31節の、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という神のご命令にそった生き方を、試み、そして挫折し、悔い改め続けながら救われ続けて、神様を賛美し続けてゆきたいと思います。
 主よ、あなたをあがめます。アーメン

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祈りとは (2005/9/10)


聖書の箇所は、うつ病を助けるために

教会に行き始めたときに、そのことを親友に告げると「教会?そんなところに行って何をするの?」と驚かれました。
たしかに何をしているのでしょう。
教会では、賛美歌を歌ったりします。聖書を読んだりします。牧師先生のメッセージを聞いたりもします。教会員の「証し」(信仰に関する個人的な話)を聞くこともあります。グループで語り合ったりもします。お昼ごはんを一緒に食べたりもします。でも一番に言うべきことは、祈っています、ということかと思います。
祈るというと、日本では通常、「願掛け」をイメージします。「○○大学に合格しますように」、「病気が治りますように」といったものです。クリスチャンも祈りの中にそのようなことも含めますが、そのような個人的な願いは、より大きな「しかし、神様、どうぞあなたのご計画のとおりに私を使ってください」といった祈りに包まれます。神様のご意志には喜んで従うというのがクリスチャンの態度かと思います。
こう言いますと、クリスチャンというのは、主体性のない人間であり、「神様」あるいは「神様の代弁者」にいいように使われてしまうだけの愚か者のように思えます。でもそれは誤解だと私は考えます。
私の言葉で説明するなら、神様とは絶対的な真理であり、絶対的な愛です。
神様は私から超絶した存在です。いや、いかなる人間からも超絶した存在です。
人間は、極小的な部分の真理しか知ることができません。ある意味で、人間のもつ最高知の一つである物理学でさえ、真理のほんの一面しかとらえていません。他の自然科学や社会科学あるいは人文科学はよりいっそう絶対的な真理から遠ざかっています。
絶対的な真理とは、私たちがこうして言葉にはできるが、実は想像することも把握することもできない概念です。私にとって神様とはそういった概念的存在、いや実在です(もちろん、この実在の仕方も私たちの想像を超えています。神様とは時空を超えた存在であり、人間は通常、時空を超えた存在様式は具体的には想像することができません。ただ思考によって直感的に理解されうるだけです。このあたり、カントの哲学をきちんと読んで考えたいと思っていますが、またそれは別の機会に)。
また人間は、ごく一時的で限定的な愛しか実践することはできません。しかし神様は絶対的なやり方で、ということはやはり私たちの想像を超えたやり方で、自らの創造物である人類(進化論についてもまた別の機会に考えたいと思います)を、そしてひとりひとりの私たちを愛されています。我が子を愛する親は、子どもをかわいがりますが、時には厳しくしつけます。それが親の愛です。だが幼児はしばしばその愛がわかりません。子どもにとっては叱られているだけのように思えるかもしれません。ですが、それは幼児の想像を超えた大きな愛なのです。これと同じように神様の愛は、しばしば私たちの想像を超えています。私たちの生活にも、いろんな試練が訪れます。クリスチャンはそのような試練も神様の愛だと信じます。な� ��ならば神様は私たちの想像を超絶した存在であり、その絶対的な愛は、しばしば私たちには理解不可能だからです。
「それは自己欺瞞ではないか。あなたはそう信じたがっているだけではないか」という反論があるかもしれません。そうかもしれません。クリスチャンはそう信じているだけなのかもしれません。ですが、それは神様が、私たちの存在とは異なる様式の絶対的な存在だからです。相対的な存在の私たちは絶対的な神様を同定することはできません。限定的な私たちの言語は、無限定な神様を記述することはできません。その意味で、相対的存在者である私たちは絶対的な神様を「知る」ことはできません。限定的な言語(あるいは絵画や彫像といった他の限定的な表現手段----つまり「偶像」----)は無限定の神様を「表す」こともできません。だから信仰するしかないのです。信じて仰ぐしかないのです。
「信仰」は「信心」と異なるともしばしば言われます。「信仰者」が信じているものは何か仰ぐしかないもの、私の言い方でしたら絶対的な真理と愛の存在です。「信心を持つ者」が信じているものは、極端な言い方をすれば何でもいいわけです。日本語では「鰯の頭も信心から」ともいいますね。
こうして考えますと、祈りとは、私たちの想像を超えた絶対的な真理と愛である存在に思いを馳せようとする、ある意味、完遂することが不可能な試みとも定義できるかと思います。自らをはるかに超えた存在を思い、その正しさと善さを信じて自らを低くすることかと思います。
ひょっとしたら、私たちは神様からのメッセージも聞くことができるのかもしれません。ですがこれは私の考えですが、どんな人間も神様のメッセージを完全に聞くことはできません。なぜならば神様の無限定な真理と愛は、限定的な存在である人間にはその全容がわからないからです。少なくともこの限定的な人間言語では表現不可能だからです。
ですから「私は(私だけは)神様の声が明瞭に聞こえる。私は神の代弁者だ。だから私の言うことに従いなさい」などといったことを口にする人は、私にとっては信仰を持っている人には思えません。私はそのような人は信じません。
私にとっては「神様、私はあなたを信じます。あなたを讃えます。あなたは何をおっしゃりたいのですか?」とへりくだりながら問い続けることが信仰生活の重要な一部ではないかと思えます。
現代人の多くは、目に見えるもの、測れるものだけしか相手にしない傾向にあります。そのような考えを持つ方からすると、上のような態度は愚かなだけのように思えます。「考えられないことを考える」というのも表層的には矛盾表現にすぎないようにも思えます。
ですが、あえて即物的な表現をするなら、自ら知性と善性の限界を常に超えさせようとする概念装置として、神という一種の矛盾概念は、少なくともプラグマティズム的見解からは有効なものだと議論することもできるでしょう。あるいは自らの限界を常に教え、謙譲の美徳を教える概念装置としても有効だと言えるかもしれません。
ですが、これは一種の信仰の非信仰的な正当化です。クリスチャンにとっての神様とは、そのように便宜的な概念装置などではない、実在であると私は信じています。
祈りとは、人間による、そういった神様との、常に未完を運命づけられたコミュニケーションの試みだと私は考えます。
そしてその試みはいつも救いなのです。
アーメン。


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キリスト教に興味を持った方のために:本あるいはインターネットサイトの私的ガイド(2005/10/2)

ここではノン・クリスチャンの方が、キリスト教に対して理解を深めるのに役立つだろうと私が考える本やインターネットサイトをご紹介しようと思います。リストは順次増やしてゆくつもりです。なおこの選択は、私個人の判断によるものとさせていただきます。

阿刀田高 『旧約聖書を知っていますか』(新潮文庫、540円)、『新約聖書を知っていますか』(新潮文庫、500円)
著者は非信仰者として聖書を徹底的に世俗的に解釈しています。このため真面目なクリスチャンの方は非常に抵抗を覚える内容になっているかとも思いますが、キリスト教に興味を持ち始めたが『奇蹟』などは信じられない、と思っていらっしゃる方には、非常に面白い入門書となるかと思います。私自身にしましても、キリスト教への「興味」から「信仰」に至るまでには、様々なプロセスを経ましたので、あえて非信仰者の方々にお薦めする次第です。

犬養道子 『新約聖書物語(上)(下)』(新潮文庫、共に588円)
私は高校時代にこの本を読んでキリスト教への理解を深めました。もう一度読んでみたいです。

加賀 乙彦 『宣告(上)(中)(下)』(新潮文庫、それぞれ700円)
高校時代にハードカバーで読みました。最後のところを読んでいたのはバスの中(ちょうどその日はストで「国鉄」がストップしていました)でしたが、涙が出て止まりませんでした。忘れられない本ですのでここに掲載しました(再読してみたいなあ)。
「はてなダイアリー」(

1929年、東京都三田に生まれた。1953年東京大学医学部卒。1955年から東京拘置所医務部技官。1957年フランス留学。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、1960年帰国。1960年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、1969年から上智大学教授。1979年から文筆に専念。1987年のクリスマス(58歳)にカトリックで受洗。68年「フランドルの冬」が芸術選奨新人賞、79年「宣告」が日本文学大賞を受賞。

ということですから、この小説を書いていた時にはクリスチャンではなかったわけです。ということは当然私も彼がクリスチャンだなどとは思わずに読んでいたはずですが、非常に深い宗教的態度を感じたように覚えています。ちなみにこの本と、倉田百三『出家とその弟子』(新潮文庫、420円) が高校時代に最も感動した本だったのかもしれません。『出家とその弟子』を最後に読んでいたのは列車の中で、ちょうど駅に着いた頃に読み終えようとしていたので、私はなかなか席を立てず、友人に怒られた思い出があります。

トルストイ『トルストイ民話集 人はなんで生きるか』(岩波文庫、483円)、『トルストイ民話集 イワンのばか』(岩波文庫、525円)
大学時代に最も感銘を受けた本といえば、これらのトルストイの民話集と、ミヒャエル・エンデ『モモ』、『はてしない物語』、アーシュラ・K. ル・グウィン『影との戦い―ゲド戦記 1』、『こわれた腕環―ゲド戦記 2』、『さいはての島へ―ゲド戦記 3』かもしれません。私に職を与えてくれたのはこれらの本の読書ではなく、専門書の読書による知識でしょうが、私に職を(いや人生そのものを)続ける力を与えてくれているのはこういった本の読書だと思います。最近は文学を読むこと(もっともこれらは児童文学かもしれませんが)が、下手をすれば嘲笑の対象にすらなっていますが、その笑いは空しい笑いだと思います。

大和カルバリー・チャペル
私は教会に行き始める二年ぐらい前から、「スカパー」(


痛みの世界の見積もり

BBN 聖書放送
BBN聖書放送は、アメリカ東海岸ノースカロライナ州シャーロットに本部を持つクリスチャンラジオ局です。ラジオやインターネットを通して聖書のメッセージやキリスト教音楽を日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語、中国語、そして韓国語で放送しています。日本語だけでなく、英語でも放送を聞いてみたら面白いと思います。

リー・ストロベル著、峯岸 麻子訳『それでも神は実在するのか?』(いのちのことば社、2100円)
洗礼を受けたときにN兄からプレゼントしていただいた本です。著者は、イェール大学法律大学院で学び、法学修士号を取得し、『シカゴ・トリビューン』紙記者として活躍した後、ウィロクリーク・コミュニティ・チャーチ教育担当牧師となった人です。彼はもともと無神論者でしたから、「信仰」について批判的に、そして真摯に考え、その疑問を神学者から物理学者、無神論者からクリスチャンにいたるまで、様々な学識者にインタビューします。本は以下の8つのキリスト教への「反論」をめぐって進んでゆきます。著者の客観的姿勢は保たれていると思います。

反論1 悪や苦難がこの世に存在する以上、「愛の神」は存在し得ない
反論2 神の奇蹟は科学の法則に相反する。よって、奇蹟は真実たり得ない
反論3 生命の神秘は進化論が証明した。よって神は必要ない
反論4 罪のない子供を見殺しにする神は賛美に値しない
反論5 「イエスだけが救いの道」と説くキリスト教は傲慢極まりない
反論6 愛の神は、人間を地獄で苦しめたりしないはずだ
反論7 愛を説くはずのキリスト教史が抑圧と暴力に彩られているのはなぜか
反論8 自分には、キリスト教に対する疑いがあるから、クリスチャンになることは
できない

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キリスト教関係の良書を紹介・販売するサイトです。国内には広島を含めて八つの店舗がありますのでお近くへお寄りの際は、ぜひ良書を手に取ってご覧ください。


東広島めぐみ教会壮年部食事会での証し(2006/5/13)

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以下は、2006年5月13日東広島めぐみ教会壮年部食事会で私が行なった証しです。

証しをさせていただきます。
 現在、教会に通い始めて一年半以上、洗礼を受けて一年足らずとなりました。以前の、私生活での悔恨や職業生活での圧迫などからくるうつ病で苦しかった時代が、遠い昔のように思えます。
 以前は、連日身体的には疲労感が激しく、心理的には空虚感にさいなまされて、もはや抗うつ剤を通常量より増やすしか途がないようにも思えました。そういった過去と比べると、現在は相変わらず忙しいとはいえ、毎日快活に過ごせていますから、夢のようです。神様への信仰を得ることによって、大げさな言い方をすれば、自分が天とも地とも他の人々とも、そして過去とも未来ともつながっている思いに恵まれています。この帰属感というか一体感が安心の元となっているような気がします。
 とはいえ、まったく問題も不安もない日々を過ごしているのかといえば、そうでもありません。仕事が忙しくおまけに体調まで崩してしまった昨年の11月から12月にかけては本当に辛かったです。しかしその辛さの中でも、辛さは仕事量と体調不良から来るもので、以前のような根源的な渇望感や不全感は感じることはありませんでした。ですから抗うつ剤のお世話になることもありませんでした。
 また各種の締め切りが重なった今年の三月も辛い時期で、おまけにその時期に、私は私の研究者としてのある不手際に気づかされ、一時期は非常に落ち込みました。思えばこの時はやはり疲れていたのでしょう。私は、うつ病患者にしばしばみられる否定的思考のパターンに陥り、私はもう研究者としては駄目なのではないか、この仕事ももう続けられないのではないか、しかし私はこれといった特技もなく、この仕事にしがみついていなければ食ってはいけない、でも私は研究者失格だ・・・などと次から次に否定的な思考を重ねて自分を追い込んでしまっていました。二日間ほどそのような否定的思考に苦しめられました。ですが、その底の状態で、私はふとこういう思いに恵まれました。「そうだ、私にはイエス様がいる。イエス� ��と暮らすことを選べば、どのような状況でも生きてゆける」。その思いに恵まれた瞬間から、私は再び否定的思考の苦しみから逃れ始めることができました。こうして私は、またイエス様に苦しみから救っていただきました。
 思えばイエス様の恵みというのは、私とはまったく非対称の関係にある、一方的な恩恵です。私はイエス・キリストというお方に何もしたことがありません。しかしイエス様は苦しいときには私を救ってくださいます。私が快活な毎日を送っている時は、私は正直イエス様のことを忘れがちですが、その快活さはイエス様からの賜物であることは、過去の私のうつ病からの回復が教えてくれる通りです。まさに私はイエス様に恵みを与えられてばかりの人間です。
 この一方的な恩恵を、イエス様に返せないならせめて私の隣人に返してゆこうというのはクリスチャンの取るべき態度かと思います。私は特に大きな仕事の前などは、私の仕事が少しでも世の中のために役立ちますようにと祈りますが、毎日のあわただしい生活の中ではつい隣人愛も怠りがちです。まだまだ1人の迷い人よりも99人の残りの人に目がいってしまいます。電話で借金を申し込んできた古い知人にNOと言ったこともあります。これでも自分はクリスチャンといえるのだろうかと自問してしまうこともあります。
 ですが、このように恵みの借りを返せない私にもイエス様は毎日恵みをくださっています。これがサラ金なら今頃催促の電話で罵倒されている頃でしょう。いや、神様からの恵みというのは、私たちにとって「借り」ではないのかもしれません。「借り」とは返せることを前提とした言葉です。でも、神様には私たちはほとんど何も返せません。私たちは、せめて隣人に何か小さなことができるぐらいでしょうが、それすらも私はできていないというのは今述べた通りです。
 となればせめて神様には感謝だけはしたいと思います。そして私がいただいている恵みは、私に起因するものではなく、神様に起因するものであること、このことだけは広く人びとに伝えてゆこうと思います。
 最後に聖書を引用します。
 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 
 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されるが、滅びません。
 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(コリント人への手紙 第二 4:5-10)
クリスチャンとしての喜びの証しでした。
アーメン。

「型破り」あるいは「即興」、あるいはアーサー・ホーランドについて (2006/6/10)

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 「型破り」と呼ばれる表現方法があります。それを常に行なうことを「即興」と呼んでもいいのではないかと思いますが、「型破り」や「即興」は、しばしばデタラメや恣意を意味すると思われています。そう思われても仕方がない表現者が多いからでしょう。これまでの伝統の知恵もろくに勉強せず、表現を受けとめる人たちの反応も気にせず、ただ思いついただけのことを表現することは、確かに軽蔑に値します。

 しかし真の意味での「型破り」や「即興」は、そのような不勉強や自己中心性とは無縁であると私は考えています。少なくとも音楽の歴史においては、周りの人に驚かれながらも受け入れられるようになった「型破り」や「即興」を行なえた者は、それまでの音楽を深く理解し、かつその閉塞も感じながら、「音楽」を再創造することに成功した人です。それは誰よりもそれまでの「型」に表現されていた何かの偉大さを痛感しているからこそ、現在通用している「型」を破ることに必然と自然があることに気付けた人です。

 そのような「型破り」や「即興」は音楽だけの話ではないと思います。

 宗教あるいは信仰においても、深い意味での「型破り」と「即興」は必要だと思います。

 私が最初にアーサー・ホーランド()という牧師の存在を知ったのは、大型書店で立ち読みをしていた時でした。その時私は『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方』(文春文庫)の表紙を見て、ぱらぱらと数ページだけ読んだのですが、正直言いますとその時の私は、彼をshowmanだと思ってしまいました。だから当然その本も買いませんでした。

 ところがそのアーサー・ホーランドが、私の所属する東広島めぐみ教会に来ることになりました。そこで上の本を取り寄せ読んでみました。

私は自分の先入見の間違いを知りました。

 彼の生き方には本物を感じました。不勉強や自己中心性からの「型破り」でなく、何かを(というか「神」を)全身で感じているからこそ、彼は結果的に私たちが「型破り」と呼んでしまうスタイルをとっているのだということがわかりました。

 たとえばある一節では彼はこう語ります。


人間というのはみんなある種の臭いを持っている。そして、薬物依存症の女の子や少年らは、人の臭いがよく分かる。罪の臭いを知っているから、正義漢を装い、善人ぶっても、こいつには罪があるなと臭いで分かるのである。どんなに上手に隠そうと思っても、彼らには、「あっ、こいつはおかしいぞ」と臭うのだ。
 そういう意味では「鋭さ」というものももっている。深さを知っているとも言えよう。彼らはいつも虐げられ、苦しんでいるところがあり、うわべだけで人に見られているから、逆に、根っこの部分を無視せず、直視して生きているのだ。うわべだけで神のことを語っている人より、彼らの方がよっぽどジーザスを分かっている。だから、俺は逆に彼らを通して、生きていることを表したいとさえ思っている。(『不良牧師』291ページ)

そうして彼のメッセージを東広島めぐみ教会で聞きました。2006年5月31日(水)の夜でした。まさに「型破り」でした。そして「即興」でした。アーサー先生は、ご自身のこれまでの人生とイエス・キリストの生涯を総動員しながら、目の前にいる私たちに瞬間瞬間感応しながらメッセージを次から次に投げかけてくれました。私たちは大笑いしたり、はっと気づかされたり、うーんと考えさせられたりしました。即興の中で出てきた表現を、その文脈やライブ感から抜き出して引用するのは危険なのかもしれませんが、私などは

「キリスト教はお前を捨てても、キリストはお前を捨てない」

などというのは、本当に深い信仰の言葉だと思いました。

 少なくとも私は、講演会の後で、私の求めに応じて握手をしてくれたアーサー先生の、強面とはちぐはぐなぐらいのシャイで、内奥が輝いた瞳と温かい掌を信じます。

 どうぞご興味を持った方は『不良牧師U 鉄馬(アイアンホース)の旅』をお読みください。私はこれを講演会の後で購入しましたが、こちらの方が、キリスト教に興味がない方にも親しんで読んでもらえると思えるからです。そしてもしさらに興味が湧けばスケジュール()を確認してお近くの講演会に参加してください。キリスト教徒の方も、キリスト教には興味がない方も深いものを感じることができると思います。

 「型破り」と「即興」こそは伝統に最も忠実なスタイルなのかもしれません。


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「砕かれる」ということ (2006/10/1)

この原稿は、日本同盟基督教団誌『世の光』に寄稿させていただいた原稿です。原稿をチェックしていただいた東広島めぐみ教会の林明信牧師に感謝します。

 「砕かれる」という表現があります。「自我の頑なさが砕かれる」とか、「唯一だった価値の絶対性が砕かれる」といったように使われる表現です(cf 詩篇52:17)。
 一般に「砕かれる」ことには、いいイメージは持たれていません。私たちは変化を怖れ、考え、感じることさえ時に抑制します。世事や特定の事柄に身を委ねて、それ以外には何も考えず感じないようにして、「砕かれる」ことなく、自分の殻を守ってゆきたくも思います。
 しかし実は、砕かれることは、breakthrough、つまりは成長につながる一大契機です。私は学校教師をしていますが、失敗することや挫折すること(つまりは砕かれること)を怖れてはいけないと私はしばしば学生に言います。
 とはいえ私もかつては砕かれて希望をなくしたことがありました。仕事に追われ鬱状態になり、やがては離婚にも至り、鬱状態も悪化しました。それまでの自分がすべて砕かれたようになったのです。「砕かれる」ことはやはり辛いことでした。
 しかし、そこを救ってくれたのは教会との出会いでした。教会に通い始め、全知全能遍在の神の存在を知ること、そして、その一人子イエス・キリストの愛を実感できたことにより、私は砕かれた状態から自分を再生することができました。罪の自覚と罪からの救いを同時に経験できました。そしておそらく少しだけ成長できました。砕かれた人間には、やはり大きな救いが必要なのです(cf 第二コリント1:3-6)。
 「砕かれる」という世間的には最悪の事態も、神様の愛により恵みに変わります。このことを多くの方々が少しでも理解してくださればと思います。

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魂以外の問題は、全て・・・・ (2006/12/6)
 
本日は、私が再び小さなうつ状態を経験して、それを経ることで再び神様のお力を感じることができたことを証ししたいと思います。
 私は以前、仕事のストレスや離婚からうつに苦しんでいましたが、教会に通い始めてからは、うつの症状からも解放されておりました。もちろん場合によっては数日程度、心身の調子が悪いときもありましたが、それは多くの人が経験することであり、医学的にはうつと呼ぶべき状態ではありません。私はうつの薬に世話になることから解放され、平安を感じて洗礼を受け、教会生活を続けておりました。
 しかし一方で仕事中心の生活は続き、土日にも出張が入り礼拝もしばしば休んでおりました。礼拝に出ても、その日を安息日にせず、教会からすぐに職場に直行して仕事をしておりました。毎朝の神様との対話であるデボーション(聖書通読と沈思黙考)もいつしか止めておりました。うつから解放され、起きているうちのほとんどの時間を仕事に注ぐ私の信仰は、知らず知らずの間に形骸化していたのかもしれません。
 そんな中、私の仕事のあるプロジェクトに二度目の駄目出しが与えられました。一度目の時は、私自身、初めて試みる方法で行っていたこともあり、駄目出しに少し落ち込みこそすれ、すぐにその方法を捨て、二度目の試みに従事しました。それなりに自信を持って提出した二度目のプロジェクトでしたが、結果は私の部分だけ駄目で、私はプロジェクトのリーダーであったはずなのに、実際は、私がプロジェクトの足を引っ張っている状態になってしまいました。
 二度目の駄目出しをもらった当日はすぐに出張に出なければならなかったこともあり、そのプロジェクトについて考えることを抑圧しました。次の日も出張は続いていましたが、一日時間をおいたのでもう大丈夫だろうと思い、そのプロジェクトについて考え始めようとしましたら、そこで私が見出したのは、意気消沈し、気持ちが折れてしまった自分でした。プロジェクトの改善について具体的なことは考えられずに、ただ自分は駄目だと自分を責め続けるだけでした。
 その晩はお酒の力を借りて、出張先のホテルで就寝はしましたものの、夜中にぱっちりと目が覚めました。二時半でした。早朝覚醒だと直観しました。早朝覚醒とはうつの症状の一つで、一度目が覚めたが最後、どうあっても眠れない状態です。私は教会に通い始めてから早朝覚醒を経験していませんでしたが、今回はやってきました。試しにさらに酒を飲んでみましたが、酔うことも眠ることもできず、かといって仕事もできずに、悶々とひたすら自分を責めながらベッドに横たわる苦しい数時間を過ごしました。次の日は疲れから早朝覚醒はしませんでしたが、その次には再び早朝覚醒をしました。さらに昼間でも、次から次に否定的なことばかり考え、自分を責める「否定思考」が始まりました。原因不明の耳たぶの痛みや、強い� ��怠感も覚えました。うつの薬が不要になったと思っていた私でしたが、これは薬を服用せざるを得ないと判断し、残っていた以前の薬を飲み始めました。このような自己判断の薬の服用は他人に勧められるものではありませんが、自分としては間違っていなかったと思います。おそらくあのまま薬なしでいたら、症状は悪化するだけだったと思います。
 薬の効き目はあり、早朝覚醒はなくなりましたが、鬱々とした気持ちは続きました。何か事があるたびに、「そうだ、だから自分は駄目なんだ」と自分を責めている自分がいました。自分を責めてはいけないと思いつつ、自分を責めてしまい、それゆえにさらに自分を責めてしまうといった連鎖が続きました。その時に私が思っていたのは、「そうか、信仰もうつ病を治すことはできないんだ」といった、今から思えば思いあがった考えでした。私はいつしか信仰を薬の代用品のように考えていました。私は救いを信仰に求めず、世間的な手段で落ち込みをコントロールしようとしました。もちろん世間知というものも有効で、私はそれなりに落ち込みをコントロールすることができましたが、根本的な解放感は得られないままでした。< br/>  そんな時のある教会の集まりの時でした。苦しい状況にある教会員の方が「神様は最善のことしかなされない方だ」と心からの言葉を出されました。私はその時何かが自分の中で動いたことを感じました。根本的な救いがこの言葉にあることを直観しました。これは他人の苦しみに対して安易にかけられた言葉ではなく、信仰をもつ人が自らの苦しみの中で発した真実の言葉でした。この言葉には真実の力がありました。
 帰宅して、以前に買っていたものの読む気になれずに放っておいたリック・ウォレン師の『回復への道』(パーパス・ドリブン・ジャパン)を開きました。そこには人間的な問題の原因として、「私がすべてをコントロールしたい」と願うことがあげられていました。世間的にはひょっとすると望ましい態度とすら思われているこの考えですが、聖書的に考えるなら、これは、限りある知性と能力しか持たない人間が、何が正しく何が誤りであるかの全ての判断を自分ができると考え、その判断で行動することです。これは「神を演じること」であり、「私は神になりたい」と思っていることだとウォレン師は述べていました。
 私という人間は、もちろん限りある一定の事柄のコントロールはできるかもしれません。またそうするべきでしょう。しかし私には全てをコントロールすることはできません。またそれを願ってもいけません。それが神ならぬ人間の定めかと思います。人間は、神、すなわち一切の真理にコントロールされる存在であり、神=真理をコントロールする存在ではないのです。人間は神=真理にコントロールされること、つまり神=真理に自らをゆだねることを選ぶべきかと思います。
 神=真理に自らをゆだねてこそ人間は、はじめて自由を得ることができるのではないでしょうか。人間は神=真理に従う限りにおいて自由になることができます。神=真理に逆らおうとするなら、常にその思い上がりを砕かれます。私は仕事においても、自らの心の健康においても、不安から、全てを自分の思い通りにしたいと願い、究極的には神=真理に逆らおうとしていたのでしょう。そうしてかえって、不自由に陥っていたのでしょう。
 そもそも仕事中心の私は、仕事によって得られる他人からの評判を自分の存在基盤と考えていました。ですから仕事の駄目出しに、技術的に対応できず、自らの全人格の否定として捉えてしまい、うつ状態に陥ったのかもしれません。しかし私の存在基盤は、人の目にどう映るかではなく、神様の目にどう映るかということです。そして神様がイエス・キリストを通じて、私という存在をも許してくださったのなら、私にはそれだけで生きる価値があります。浮世の出来事は、浮世の出来事として、淡々と技術的に問題を解決すればいいだけです。浮世の技術的な問題は、私の専門家としての評判に影響を与えることがあっても、私の人格や魂には何の影響も与えません。私の人格や魂を損ねるのは、真理である神をないがしろにする自� ��中心的な態度、キリスト教でいう「罪」なのです。
 私は自分の驕慢(おごり、高ぶり)こそを怖れなければなりません。全てを自らが望むようにしたいという思いあがりこそが私を損ねるのであって、具体的な一つ一つの問題が私の存在基盤を破壊することはないのです。私は、仕事の技術的な克服は心がけなければなりません。しかし、自分自身でなく神様の方向に向おうとする限り、私は自らの存在基盤について一切の不安を感じる必要はなかったのです。
 ウォレン師は本の中で言います。「私たちの注意を神に向けさせるために、神は痛みを用いられます。痛みは警告灯であり、ブザーであり、警報です。『そろそろ目を覚ましなさい。何かが間違っているから』と知らせているのです。痛みそのものが問題なのではありません。うつ状態や心配、恐れが問題の本質ではありません。それらのものは何か問題があることを知らせる警告灯のようなものです。痛みはただ、あなたの人生の中に何か徹底的に間違ったものがあることを継げているだけなのです」(198ページ)。私のうつとは、私の心が神様から離れ始めたことを知らせてくれるブザーだったのではないでしょうか。今、私はブザーに感謝します。うつといった痛みは神様からの罰ではありません。それは神様からの、悔い改めなさ� �、私に仕えなさいというメッセージなのです。
 私が洗礼の時に行った証しで、何人かのクリスチャンの先輩が共感してくださいましたのが、「神のご命令にそった生き方を、試み、そして挫折し、悔い改め続けながら救われ続けて、神様を賛美し続けてゆきたいと思います」という部分でした。私は、今回、クリスチャンとして挫折し、悔い改めました。生活を、職業人としても一人の人間としても、より本質的なものにしてゆきたく思います。職業では技術的な批判には具体的に誠実に応えつつ、移ろいやすい世評には一喜一憂することを控えようと思います。一人の人間としては、神様の声に少しでも耳を傾けられるような生活をしたいと思います。
 これからの私に再びうつ病が訪れるのか、他のどんな痛みが訪れるのかは私にはわかりません。私はそれをコントロールできません。ですが、私は痛みを怖れません。なぜなら痛みは愛の存在である神様からのメッセージだからです。私は信仰を薬の代用品とはもはや考えません。私の乏しい信仰と引き換えにうつから解放してくれますかなどと、神様を試すような真似はしません。うつは再び来るかもしれません。その症状は辛いことかもしれません。しかし私はそれを受け入れます。うつをごまかして、神様から一層離れてしまうことを私は怖れます。
 このような言い切りは許されるものでしょうか。魂以外の問題は、全て技術的な問題です。技術的な問題には技術的な対応が可能です。そして魂に関しては、イエス様が文字通り命をかけて私たちを破滅から救ってくださいました。神様から私たちの心が離れる時、私たちはブザーの音を聞きます。そうすれば悔い改めればいいのです。そして安心して技術的な問題だけに技術的に対応すればいいのです。私たちの魂は永遠に守られているのですから。

「打ちのめされ、圧倒された私たちは、自分が無力であることをいやというほど思い知らされました。しかし、それでよかったのです。というのは、そのような状況の中で、私たちはついにすべてを神の御手にゆだねるようになったからです。私たちを救うことのできる方は神だけです。そして神は確かに私たちを救い出してくださいました」(IIコリント1章8-10節)

主の御名を賛美します。アーメン



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Be strong in the Lord (2007/3/25)

 三月は別れの季節です。金曜日に卒業式で学生を見送った後、今日の日曜日には私が所属する東広島めぐみ教会で、この4月から転出する牧師の林明信先生とそのご一家を見送りました。
 私が林先生に会ったのは、私が離婚の悔恨と仕事のプレッシャーなどからうつ病が悪化し、どこまでも坂道を転がり落ちてゆくような無力感と恐怖感を感じていた頃でした。あの頃の自分を思い出すにつれ、今こうして元気でいる自分を本当にありがたく思います。あのままだったら、本当にどうなっていたんだろう。
 林先生の最後のメッセージは「しっかりと立ちなさい」というものでした。聖書朗読は新約聖書エペソ6:10-20でした。10節のNIV訳の"be strong in the Lord"という表現が心に残りました。新改訳(3)は、ギリシャ語原典を重んじ「主にあって、強められなさい」と訳しています。重要なのは、「自力で強くなろうとするのではなく、神の力のなかで強められなさい」といったことではないかと私は理解しました。
 かつての私がそうでしたが、人は自分の力に希望をなくしてしまうことはあります。無力感にさいなまされて、もう自分は駄目だと思い込んでしまうわけです。しかし、今、しみじみ思うわけですが、もし仮にそのように思うことがあっても、神様の御力への希望までも失う必要はありません。いや、失ってはいけません。無力な自分も神様につながることにより力が与えられてきます。古今東西の多くの人々はそうやって、世間知ではちょっと驚くしかないような存在となり、艱難を乗り越えてきました。18節は「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と言います。神様は常に変わらぬ希望です。その神様から離れまいと祈り続ける限りにおいて、私たちにも希望が与えられます。
 クリスチャンでない方にとって「神様は常に希望」というのは不可解な表現かもしれません。それでは信仰を持たない方にはこのように言い換えてみましょうか。「自分が無力であると絶望し、自分に希望が持てない時にも、あなたの家族には希望をもちなさい。友人に希望を持ちなさい。クラスやチーム、あるいは同僚に希望を持ちなさい。見知らぬ他人の善意にも希望を持ちなさい。あなたはあなた一人ではなく、何かにつながっている存在です。あなたに希望が見出せない時にも、あなたにつながるあなたを超えたものには希望があります。力があります。人類は様々な悪意や邪意にさいなまされながらも、これまで善意を失わずにきました。損得計算では明らかに不利なはずにもかかわらず、善意は、絶えるどころか着々と力を� ��てきています。善意はきっとあなたに流れ込みます。自らを超えたところからくる善の力を信じなさい。それは必ず存在し、必ずあなたのところに到達します」。「あなたが善き者であろうとする限り、善き力はきっとあなたを見出し、あなたを強めるでしょう」とも言えましょうか。
 それでも「家族も友人も、クラスもチームも同僚も信じられない。ましてや見知らぬ他人なんて!」と毒づきたくなることもあるかもしれません。その時は一足飛びに神様を信じてみればいかがでしょうか。クリスチャン的な考え方からすると、神様こそが人間の善性の源だからです。神様を信じることにより、私たちは人間も信じることができるようになるのかもしれません。
 林先生、そしてご家族の皆さま。皆さんのおかげで、私も信仰に導かれました。仮に自分に希望が見出せないような時も、それは一時の錯覚で、神様につながろうと祈り続ける限り、私といった人間も常に希望を抱き続けることができるということを実感することができるようになりました。感謝します。林先生ご一家が、新天地でますます豊かに神様に祝福されることをお祈りいたします。
 アーメン。

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