2012年4月26日木曜日

FM Moring View: 今朝の音楽 アーカイブ


6/10thu:view今朝のタイムテーブル

今日のお天気
東の3.2m 24.8℃ 湿度83% 弱い雨

オープニング:
6月10日は時の記念日
「肉食系女子」が恋人と過ごす時間は
「草食系男子」の2倍 長いことが、
時計メーカー「シチズンホールディン グス」の
調査で明らかに!


おきでん朝刊からニュース
1  新報総合面 
菅内閣 支持61% 日米合意踏襲52%評価共同通信世論調査

2タイムス総合面 
8月末に訓練移転構想 普天間移設防衛大臣会見 地元合意困難視

3タイムス総合面 
参院沖縄選挙区 民主、花城氏擁立へ 県連 党本部と最終調整

4  新報総合面
県財政収支試算 10年後583億円不足 歳出11年度から大幅増

2012年4月25日水曜日

マリーズ・コンデ『わたしはティチューバ セイラムの黒人魔女』 - 無定見な書棚



[読書][小説]マリーズ・コンデ『わたしはティチューバ セイラムの黒人魔女』

虐げられし者

 この小説は、17世紀終わりにアメリカのセイラムで起きた魔女裁判の容疑者、ティチューバ・インディアンの一人称の語りという体裁をとっている。

 ティチューバは母親がアフリカからカリブ海のバルバドスへと渡る奴隷船の中で白人男性に強姦されたときにできた混血の子供である。それでも母親は同じ黒人奴隷の男性と事実上の夫婦関係になり、ティチューバは血の繋がっていない父親から愛情を受けて育つが、彼女がまだ子供のころ母親は主人を短刀で傷つけて縛り首になり、義父も自殺してしまう。

 一人ぼっちになったティチューバはママ・ヤーヤという魔術師に引き取られて魔術を学ぶが、ママ・ヤーヤが死ぬとジョン・インディアンという黒人奴隷と夫婦になる。そして主人に連れられてボストンからセイラムへと移り住むのだが、そこでティチューバは他の二人の女性とともに魔女の嫌疑をうけ、逮捕されてしまうのである。このように、これは一人の黒人女性の受難の物語だ。

 アメリカ史上有名なセイラムの魔女裁判だが、これは『アダムの堕落においてわれらすべてが罪あるものとなれり』『わたしの額に罪のしるし。それは消せない』といった陰鬱で抑圧的な清教徒教育を受け、閉鎖的な環境に鬱屈した子供たちが、黒人奴隷のティチューバを陥れるために始めたいたずらがきっかけだった。女の子たちはティチューバの姿を見るとわざとらしく唸り声をあげ、何かに取り憑かれたかのようにのたうち回るという芝居を演じたのだ。しかもその子供たちはティチューバが親身になって世話をしてきた、主人の娘たちであり、それまではティチューバと仲良くしていたのだった。

 初めこそたいした騒ぎにもならなかったが、しだいに魔女の噂が周囲のコミュニティーにも広まり、集団ヒステリー的な現象が関係ない子供たちにまで起こるようになる。それがきっかけで住民の間に長い間くすぶる対立に火がつき、大人たちがこの機会を利用して自分の敵を魔女として告発し始めたのである。ティチューバも結果的にその片棒を担ぐことになった。


"避妊 - なぜない"

 ティチューバは、当時の社会において考えられる限りのありとあらゆる負の性質を背負っていた。それは黒人であり、魔女であり、そして女性であることである。これらの要素はその時々によって複雑に絡まり合って彼女を縛りつける。主人の妻とは男性に支配される女性という点で共通するが、主人の妻は一方で白人としてティチューバを支配し、告発する。夫のジョンとは黒人奴隷という点で共通するが、彼は男の性的能力を活かして白人女性をも籠絡し、囚われの身となった彼女を捨てる。ティチューバはいつでも全ての人々の最下層にいるのである。

2012年4月23日月曜日

ゆるーいコンサルタントな日々 暇と退屈の倫理学_その3


ゆるーいコンサルタントな日々 暇と退屈の倫理学_その3
ゆるーいコンサルタントな日々


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暇と退屈の倫理学_その3
2011/11/03 22:55

 さて、お待たせしました。今日も「暇と退屈の倫理学」を見ていきます。3回目です。

 暇と退屈の倫理学
(2011/10/18)
國分 功一郎

商品詳細を見る

 第二章は「暇と退屈の系譜学。人間はいつから退屈しているのか?」です。

 系譜学というのは、ニーチェに端を発します。ニーチェは「道徳の系譜」という本で、キリスト教道徳にひそむルサンチマンを暴き出しています。すごく鮮やかです。

 ご参考ですが、この導き出したプロセスをものすごくざっくり言ってみますね。

 ドイツ語で、「グード」というのは「よい」という意味だが、キリスト教では、弱い者、貧しい者が「グード」だと言っている。

 しかし、「グード」という言葉の語源を辿ると、実は「強い」とか、「豊か」とかそういう意味である。キリスト教は恐ろしいことに、言葉の意味をひっくり返してしまうということをやったのだ、と。それは、弱者の恨み� ��つらみに起因している。この恨み、つらみこそ、キリスト教の本質だ、というようなお話です。

 この「起源を辿る」というのが、「系譜学」という考え方です。

 でね、著者はこの章で「暇と退屈」の起源を辿ろうとしています。

 いったいいつまで遡るのでしょうか?なんと、1万年単位で遡ります。えー、人間の暇と退屈の起源はそんな昔から考えないといけないの?と思うでしょう。でも、この著者の説明はけっこう納得がいきます。

2012年4月22日日曜日

エジプト神話ストーリー ボクらが神になった理由


 エジプト神話では、何故だか何だか、人間と動物が合体したような神様がたくさんいます。
 それは、動物たちに、人間には無い能力がたくさんあったからです。たとえば、強くて大きなライオンが、力の神になることや、鳥の中では雄雄しくて、プライド高そうな鷹が王の象徴として王家の守護神になるのは、分かりますよね。

 でも中には、「なんでコレが??」と、思っちゃうような神様もいらっしゃいます。
 そこで、「なぜ、この動物がその神様になったのか」に、ついて、今のところそうだろうと言われている説から、解説していきたいと思います。
 もっとも、古代エジプト人に会って確かめたわけじゃないので、本当にそうだったかどうかは分かりませんが…。

◆ワニが豊穣の神になったワケ◆

2012年4月20日金曜日

MonkeyBusiness Junks / 200603



2006/03/31

 金曜日,午前中にモサ伝の原稿を書き上げ,午後はプログラミング仕事。来週月曜納品予定分を仕上げ,その次のスケジュールと仕様を確認するためクライアントに電話。一個だけ,どう実現したものか悩ましい機能があり悩む,どーしたもんかな(機能自体は難しくはないんだが,従来の仕様にこの機能を違和感なく追加するのが難物なのだ)。……午後7時過ぎ,やなか珈琲店に電話で豆を予約して家を出る。今夜は新宿で「さよならパソコン通信オフライン」なのだ。1987年のサービス開始直後に使い始めたニフティサーブのパソコン通信,そのTTYのサービスが3月一杯で(ちうことは今夜なわけだけど)遂に終了するのである。あらためて考えると現在つきあいのある人間は,ほとんどがこのニフティやASAHIネットがなければ出逢う� �ともなかっただろう人々である。そう考えると感慨深いもんがあるなぁ。
 11時過ぎ,懐かしい面々が詰めかけて盛況だった会場を後にし,ミヤイチ君の案内でASLヤマダさん,コイケさんと共に赤坂某所(これはボカシてるわけぢゃなくて酔っぱらってたのでよく覚えてないのである)へ二次会へ。なんだか知らぬが手品を見せてくれる楽しい飲み屋で午前1時過ぎまで歓談。……ところがこのあとが良くない。解散後,南に向かうタクシーが全然つかまらない。アークヒルズ辺りのタクシー乗り場でしばらく待ったがダメ,あきらめて(つうか途方に暮れて)歩き出し,麻布に入ったところでようやく空車が。地獄に仏というかなんというか,家にたどり着いたら午前3時。酔いもヘチマもすっかり醒めてしまいましたがな。やれやれ。


2006/03/30

 なんとか昨日の嘆願は認められ,今週前半の苦心が水泡に帰すという最悪の事態は回避。来週月曜日納品分のスパートにかかる。早いとここれを終わらせてしまわないと来週のモサ伝の原稿が書けない。神楽坂方面のデータベースもあるし。……てなわけで,振り返ると今月は読書量ががくんと減ったような気がするが,長らく枕元にあったチャールズ・ブコウスキー著「町でいちばんの美女」を読み終える。これ,一回読んで売ってしまった本なんだが(奥付によると初版は1994年になってるからそのころだな),昨年の何月だったか,神田の古書店街で300円均一のワゴンの中にあるのを見て思わずまた買っちゃったんである。
 読んだヒトには説明不要で,読んでないヒトには説明不能(少なくとも読みたくなるような説明は,ね)というのがこの作品の最も真実に近い説明のような気がするんだが,読みたくならなくてもいいからどんな本かだけは知っておきたい,できればフジモトの言を根拠にして知ったかぶりだけしたいというヒトのために乱暴に概括を試みると……,こほん,つまりこのブコウスキーというヒトは「悩まない太宰治」みたいなヒトであり,大宰がその自意識ゆえに頭のなかで想像するだけで身もだえしてしまったようなあんなことやこんなことをまんまやってしまい,またやってしまう人たちとつきあい,それを原稿にしてわずかな金で売り渡すとそれをまた全部飲んだり女を買ったりしちゃう,で,その売り渡しちゃった原稿がこれな� ��である……と,こんな感じだろうか。
 例えば表題作,主人公の「私」は町でいちばんみにくい男で,それがなぜか「町でいちばんの美女」であるキャスに惚れられる。キャスは常に容姿ではなく人格として認められることを欲しており,その欲求のあまり無意識のうちにみにくくなろうとして自傷行為を繰り返しているという難しい女。「私」はキャスを本気で心配するが,彼が彼女を気づかうほど,彼女のほうはそれが自分の美しさ故であると苛立つ,そして……。
 と,こうアラスジだけ書くとなかなか文学的なんだが,これはオレが意識して作品に使われている隠語や卑語,言い回しを使わず,具体的な場面を描写するのも避けて書いているからで……。あれ? なんだか「ブコウスキーの小説はその卑猥でグロテスクで下品で救いのない描写の底に人生の真実を隠しているんだ」てないい話になっちゃったみたいで困っちゃうんだが,オレが言いたいのはそうではなくて,たとえその底に人生の真実が隠れているとしても,ブコウスキーがそれを覆うのに使っているものの卑猥さグロテスクさ下品さ救いのなさは半端ではなく,しかも時には人生の真実なんて隠されてなかったりするんだよ,ということなんである。解りましたか(解んないよね)。

 夕刻,日本代表 vs エクアドルのサッカーを観て快哉を叫ぶ。やあ,勝てて良かったねぇ。そのあとで映画を1本観ようと思ったんだが,地上波をザッピングしていて関口宏が司会をやってる料理番組のラーメン対決というのにひっかかってしまい,なんだかんだと最後まで観てしまう。結局元ヤンキーだったという兄ちゃんのイノシシを使ったラーメンが他の2品を破ったのだが,オレとしてはわざわざ有田焼の器を特注した,ちゃぶ屋とかいう店の塩ラーメンが一番食ってみたかったなぁ。いや,そう思うだけで,店の前に行列作ってまで食うなんてこたぁ絶対にしないんだけどね。

2006/03/29

 午前中は家で仕事,午後イチ,調布に赴いてミーティング。おかげさまで夏から秋にかけての仕事がほぼ確定し安堵のため息。しかし好事魔多し,6時過ぎに家に戻ると月曜,火曜,そして本日午前中にやった仕事のあらかたが無駄になりそうな報せが……。確かにスケジュールでは4月前半の作業予定だったから,現段階で「やっぱりその新機能の実装はなし」ってのアリだと思うかもしれないけれど,これを実装すると他の機能にもいろいろ大きな影響が波及するので,今行っている直接関係なさそに見える作業の中でもその準備はしておったのである。
 うう,具体的に書けないのが隔靴掻痒だが,つまりこのあと4月,ここにずどんと高架式の高速道路を造る予定だったので,現段階でその支柱が立つはずのところにある家に立ち退いてもらったり日陰になっちゃう家に挨拶に行ってたりしていたのだ。ちうか,それを見越してやっていたから月曜からの作業はなんだかんだと難しい部分があったのね。なのにようやく目処のついたその細かな作業をパーにするのかよ,ちと待てこら,と。あわてて関係方面に電話して計画存続を訴えてはみたが,どうなることやら。

 その電話が長引いたせいもあって本日の録画消化は連ドラ1本。「スターゲイト」の第166話「プロメテウスの受難」。アトランティス調査を指揮することになった元司令官ハモンド(ドン・S・ディヴィス)がSG基地を訪れる。連絡の途絶えた先遣隊の捜索のため,ダニエル(マイケル・シャンクス)を同道したいというのだ。この計画へのダニエルの参加に反対だったオニール(リチャード・ディーン・アンダーセン)だが,恩人でもある上官には逆らえない。しぶしぶダニエルのアトランティス行きを承諾する。地球を発ったプロメテウスは,目的地までもう少しという場所で人間の声による救難信号を受信,コースを変更して救助に向かう,が,待っていたのは動けなくなったゴアウルド船アルケシュと,スーパー戦士の装甲を着け� ��女性バーラ(クラウディア・ブラック)。彼女の目的はプロメテウスを乗っ取ることだった……。
 米国では既に放送中の派生シリーズ「スターゲイト:アトランティス」の伏線となるエピソード,どうやら今回の話で「連絡が途絶えた」と言われているチームが「アトランティス」の主役達ということになるらしい。日本でも今秋から放送が始まるらしいので楽しみである。それとは別に,今回登場した謎の女バーラはなんとなく今後何度も登場するジュンレギュラーっぽい扱いをされていたと思うんだがどうだろうか。HDレコーダーからリアルタイムのニュースに戻ると,先日転落死しているのが発見された小学生はどうやら何者かによって15階から投げ落とされたらしいという。なんだかこの国は確実に悪い方向に転がり始めている気がするな。


2006/03/28

 ようやく勤労意欲が復活,オン・スケジュールで仕事をこなす。晩にはお馴染み「ケロロ軍曹」を新旧4回分。その内容は,第11話 「ケロロ小隊 テレビに出演せよ!であります」,第12話 「すもも アイドルは宇宙をこえて であります」&「ギロロ 戦場のちいさな天使 であります」,第101話 「ケロロ小隊 ペコポンが静止する日!? であります」,第102話 「ケロロ小隊 ペコポン!! 滅び行くか愛の星よ!! であります」。
 旅モノテレビ番組を皮肉った第11話も面白かったが,ここはやはり大長編となった(次回第103話で完結するらしいが)第101話からのガルル小隊による地球侵攻話を取り上げなければなるまい。ギロロの兄であるガルル中尉率いる……あれ?4人組に見えたな,ケロン軍の小隊ってみんな5人組ぢゃないの? あ,第102話の最後でケロロを洗脳(?)して仲間(しかも大尉……なんで?)にしたからいいのか? ちうか前回「タイトルバックの謎の5人組」とか書いたがよく見たらあの餌は4人組ではないか。思い込みというのは怖いもんだな,一桁の数を数える手間さえ省かせてしまう。
 とにかくその4人組が現れ,一向に進展しない地球侵略を一挙に実現しようとする。いやはやなんとも突然ダッシュでシリアス(でもないか)な展開になったが,どういう結末を用意しているんだろ。まさか,あの冷酷そうなガルルまでガンプラにハマって侵略をサスペンドするとかってオチぢゃないよね,ね? おおそうぢゃ,来週だか再来週だかから放送時間が変わるとか字幕が出ていたな,HDレコーダーの予約を変更しておかねば。

 続いてもう1本,旅客機パニックモノのTVムービー「エアポート '02」(ジョン・カッサー監督)を観る。以前北大のスミ君だったかが「潜水艦映画にハズレはない」とか言ってたが(オレは基本的に戦争映画を観ないのでこの説の当否は判定できない),同じようにオレは「旅客機パニックモノにハズレは少ない」と思ってるので,こういう低予算映画でも一応観るのである(あ,あとホラーも観るな,あっちはハズレばっかだけど)。
 プロットはよくあるヤツで,会社の経費削減による燃料不足が真の原因である事故の責任を取らされて休職中のパイロット,マイク(エリック・ロバーツ……あんまり似てないがジュリア・ロバーツの兄貴らしい)がロンドンの空港で……何やってたんだろ? 飛行機待ちかなんかしていると,会社のやつがやってきて整備不良と悪天候で遅れたボストン行きの副操縦士を頼めないかと言う。組合の規則で決まっている拘束時間をオーバーしたので本来のパイロットを下ろさなければならないんだそうな(へぇ,そういう規則があるのか,と思いました)。
 操縦席に座ってみると,彼と同様急遽呼び寄せられた機長は会社ベッタリの官僚的なヤツだし,客室乗務員のケイティ(アレキサンドラ・ポール)は昔の恋人。客席には妻殺しの凶悪犯人を護送中の……ご丁寧に飛行機が苦手の刑事に,新婚旅行中のメカニック。そして整備不良の飛行機は大西洋上で貨物室のドアを吹っ飛ばし,緊急着陸のためアイスランドに向かう……。もう話の展開が想像つくと思うが,それでも細かい点では予想を裏切る部分もあり,ワタシは結構楽しめました。TVムービーとしてはかなりの高得点をあげていいかと。


2006/03/27

 1日半ごろごろしたら休み癖がついてしまってやる気にならず,午前中マシンに向かってはいたものの進捗はほぼゼロ(ま,一応仕様を満足するためのアイディアをいくつか試して「ダメ」という結果を出してたわけでボーっとしてたわけではないんだけどね)。大脳皮質の奥深くまで煮詰まってしまったので,気分転換を兼ねて武蔵小山まで靴を買いに行く。ここんとこなんだかやたら靴下の踵のところに穴が開く,新しい靴下が3度ほど履いただけで穴が開くという現象が続いておったのだが,調査の結果その原因が靴にあることが判ったのである。踵のところのクッションがすり切れていて革とキャンバス地の縫い目が直に靴下と擦れるようになってたのだ。
 ……午後3時過ぎ,新しい靴を履いて(特価3,980円のナイキ。旧靴下リッパーはお店で処分してもらうことに),林試の森を散策してから帰宅。昨日,今日と暖かかったせいか桜は六分から七分咲き。花見は今度の週末が最後のチャンスというところか。再びマシンに向かい,なんとか仕様を満足できる手法を見つけて本日は閉店。晩のお楽しみは座頭市映画を2本に連ドラを1本。

 まず最初は……これは好きな映画でした,「新座頭市 破れ!唐人剣」(安田公義監督)。例によってやくざの一団に追われながら野州間々田宿付近にやってきた座頭市(勝新太郎)は,南部藩の侍に斬られて瀕死の唐人から少年小栄(香川雅人)を託される。続いて現れた唐人剣士・王剛(ジミー・ウォング)に要求されるまま少年を渡した市だったが言葉は通じず,ねぐらと定めた水車小屋での偶然の再会も,南部藩に追われる王に「俺をつけているのか」と怪しまれる。小栄のつたない通訳で,彼らが間々田にある福龍寺という寺を目指していると知った市は案内を申し出るが,途中宿を借りた農民与作(花沢徳衞)の一家が南部藩の意を受けたやくざ藤兵衛一家に惨殺されてしまい,王は市こそ密告者だと思い込む……。
 香港のカンフーアクションスター,ジミー・ウォングを日本に連れてきて隻腕の唐人剣士とし,盲目の座頭市と戦わせるというキテレツなアイディアは勝新本人のものらしいが,さすがと言うべきだろう。これだけ見るとほとんど「超人対決」だが,言葉のギャップによる相互不信を底流にして異色ながら味わい深い時代劇に仕上がっている。浜木綿子の仇っぽいお色気もマル。オレとしては三波伸介,戸塚睦夫,伊東四朗のてんぷくトリオが3人揃って登場するのがなにより嬉しかったりするんだけど。

 もう1本の座頭市は初見,「座頭市御用旅」(森一生監督)。街道はずれの葦原を行く市は,何者かに斬られた臨月の女に遭遇,苦心惨憺の末男の子を取り上げるが,女は「野州塩原の佐太郎に……」と言い残して息絶えてしまう。仕方なく赤子を抱えて塩原に向かう市だったが,付かず離れずに彼を追い,隙あらば石を投げつける少年の存在に往生する。少年・健太(岡本健)は母がやくざに襲われるところを見ておらず,市が母を殺したものと思い込んでいるのだった。やがて塩原に着き,佐太郎の妹お八重(大谷直子)に赤子を託した市は,気骨ある岡っ引きの藤兵衛(森繁久彌)に出会い,その人物に感じ入る。
 この藤兵衛の威光でやくざがいない塩原宿だったが,これに目をつけて矢板宿から鳴神の鉄五郎(三國連太郎)という貸元がやってくる。名目は貸し金の取り立てだが,その実老齢の藤兵衛を引退させ自分が十手を預かって二足わらじで塩原宿を支配しようという腹積もり。佐太郎(明石勤),お八重兄妹も鉄五郎に借金があり,殺された佐太郎の女房がその二十両を奪われたことを知った市は,自分の首にかかった賞金をこれに充てようと藤兵衛の元に……。善意が誤解されて主人公が善人達に憎まれるというパタンは,そうと判っていてもハラハラする,なんちうか時代劇プロットの「王道」ですな。ラスト,高橋悦史演じる浪人役の考えてみればもったいない使い方も勝新ならでは。

 最後は2週間ぶりの連ドラ「LOST」。第19話は「啓示」。前回ハーリーの過去とともにその一端がかいま見られた数字の秘密は「おあずけ」。このドラマ,もういくつ「おあずけ」があったのか思い出せないが,製作者側も忘れちゃってるってことはないよな,頼みますよ,ホンマ。で,今回は森で見つけたハッチ(だからこの脇にあの数字が書いてあるんだけど)を開けようと躍起のロックの過去暴き第2弾。それは数年前,幼いころに里子に出され,両親のことを何も知らなかった彼の元に突然母親を名乗る女が現れた。その母親から芋づるのように大金持ちの父親の存在を知り「再会」を果たした彼は……。
 いやはやなんともひでぇ話。これ,「『小公子』という話で少年セドリックを祖父が引き取ったのは彼の臓器が目当てだった」という,まるで「大人のための残酷童話」みたいなネタだよね。……とにかくそのロック,夢で森にプロペラ機が墜落するのを目撃し,ブーンと共にそれを発見するのだが,突然,事故前のように足が動かなくなってしまう。おいおい大丈夫なんか,と思っているとまた来週なのであった。

2012年4月19日木曜日

痛いニュース(ノ∀`) : 埼玉医科大准教授 「聖書は正しく、進化論は間違い。日本人は騙されている」 - ライブドアブログ


他の器官についても、なぜ肺が酸素を取り込めるのか、脳が記憶できるのか、感情はどこから来るのか、皮膚が熱いとなぜわかるのか、なぜ免疫が外敵を撃退できるのか、なぜ腎臓は不要物のみを排せつできるのか、すべてが神様の御業であるとしか考えられないことを証しした。

人体の形成について、すべては初めから神様の御心によって創造されたと考えるべきで、これをもし進化論に即して考えれるとすれば、「もし段階的に代謝能力を獲得してきたのなら、片っぱしから乳児期に死亡する時代、全員重度知的障害者だった時代などが生じたはずであるが、そのような時代があり得ないことから、『人体の組織は最初から全部できたと思われる』」と確信したという。

同氏によると、人体の組織は観察すればするほど、「段� �的に進化してきたとは考えられず、最初から全部できなければならないことばかり」であるという。

現代教育で教えられる始祖鳥や人類の祖先などの進化論の教育について「教える人もそのことが科学的真実かのごとく教わっており、自分では確認していないのに悪意のねつ造によって作られた進化論が教えられ続けている」ことを厳しく非難し、「人類の起源の説明として未だに進化論が教えられ日本人は信じ込まされている」と警告。


3 :名無しさん@涙目です。(長屋):2011/07/07(木) 19:46:00.29 ID:1ayFXjlB0
などと意味不明な供述をしており

11 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/07/07(木) 19:47:43.37 ID:VtrFiD1e0
よう見てみ、マジキチですわ

14 :名無しさん@涙目です。(長屋):2011/07/07(木) 19:48:08.71 ID:1ayFXjlB0
これキチガイの顔ですわ

4 :名無しさん@涙目です。(兵庫県):2011/07/07(木) 19:46:23.96 ID:bajR92AM0

今中和人氏 プロフィール

東京都在住 荻窪栄光教会会員

1982年 私立灘高校卒
1988年 東京大学医学部医学科卒
1989年 日基教団根津教会にて受洗
1999年 埼玉医科大学心臓血管外科講師
2007年 埼玉医科大学心臓血管外科准教授医学博士、
心臓血管外科専門医等の資格を持ち、現在に至る。


なんだ、俺らの先輩か

7 :名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/07/07(木) 19:46:59.91 ID:tzP3JcWk0
人体の構造についてよくわかんないから神様のせいってことで
考えるのを放棄してるってこと?

8 :名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/07/07(木) 19:47:14.50 ID:XZYD6ENa0
確かに、俺の股間についとるもんは神様も苦心して作ったであろうことが見て取れる
取れたら困る

10 :名無しさん@涙目です。(catv?):2011/07/07(木) 19:47:34.04 ID:KBnKwZyw0
生物の力やべえ

こんなの神様じゃないと作れない

じゃあその生物よりもっと凄い神様は誰が作ったの?

12 :名無しさん@涙目です。(宮城県):2011/07/07(木) 19:47:53.99 ID:3kYwl5wq0
ダーウィンの進化論に多少間違いがあるからって、
人間は神に作られたと考えるのは短絡的にも程があるんじゃないか。

16 :名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/07/07(木) 19:49:05.39 ID:sY4aOu+b0
進化論が間違ってるのはいいとして、その変わりが何で聖書なの?
バーカ、ウンコして寝ろ!

17 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/07/07(木) 19:49:09.23 ID:ewW7BpiJ0
バカ医者の末路ってことか

21 :名無しさん@涙目です。(大阪府):2011/07/07(木) 19:49:35.94 ID:fRImULBo0
お前がどういう考えを持ってようがお前の勝手だけど他人に押し付けないでね

25 :名無しさん@涙目です。(栃木県):2011/07/07(木) 19:50:16.66 ID:48JtqnHI0
わからない物を神のせいにするのは甘え

29 :名無しさん@涙目です。(長屋):2011/07/07(木) 19:50:44.22 ID:+/05+a/J0
バカだなぁこの世は空飛ぶスパゲッティモンスター様がつくったんだよ

33 :名無しさん@涙目です。(茨城県):2011/07/07(木) 19:51:28.79 ID:SWLMF8Bb0
神様が創ったのなら病気とか存在しない体を作ってくれよ

35 :名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/07/07(木) 19:51:54.78 ID:xifxnaxJ0
まあ無から有が生まれないという現代の科学の範疇が覆らない限り
神による創造という主張は否定は出来ないわな。

38 :名無しさん@涙目です。(catv?):2011/07/07(木) 19:52:06.67 ID:tpPiIRWq0
天動説も創造論も否定され科学の勝利が確定してますから。残念。

39 :名無しさん@涙目です。(長屋):2011/07/07(木) 19:52:10.69 ID:JnTGcD/B0
考えたり調べたりするのが面倒だから
すっ飛ばして神のせいにしちゃうんじゃないの

45 :名無しさん@涙目です。(広島県):2011/07/07(木) 19:52:45.74 ID:c0kMQJ/Y0
科学を研究しまくったらもはや神が創ったとしか思えないみたいな
思想にはまるとかは聞くけど、
そこで何故キリストなのかと考えるとこいつはただのカルト狂い

46 :名無しさん@涙目です。(東京都):2011/07/07(木) 19:53:29.32 ID:27aRzbl90
金も名誉も地位も全部手に入れて欲が無くなって頭おかしくなっちゃったのか

47 :名無しさん@涙目です。(dion軍):2011/07/07(木) 19:53:34.51 ID:2ST8aGFN0
なんで人間という生物だけで考えるんだ
人間の前に猿人がいて猿がいて、その前は魚だったり爬虫類だったりしたんだろ

48 :名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/07/07(木) 19:53:38.15 ID:cTFo0EqG0
神が作ったものか欠陥品だからお前が食っていけるんだ

51 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/07/07(木) 19:53:53.56 ID:XFgNETPB0
基地外に医師免許を持たせるなよ

52 :名無しさん@涙目です。(鹿児島県):2011/07/07(木) 19:53:57.38 ID:YXGLqkdR0
勉強しすぎるとこうなる

53 :名無しさん@涙目です。(北海道):2011/07/07(木) 19:54:06.06 ID:ZQb07eps0
「根拠は?」「聖書」

医師免許取り上げろ

58 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/07/07(木) 19:54:36.59 ID:DpHs6z1D0
こう言う人たちのメンツを潰さないように論破する方法って無いかな。
基本的に悪い人たちじゃないと思うが。

65 :名無しさん@涙目です。(catv?):2011/07/07(木) 19:55:39.47 ID:KBnKwZyw0
>>58
人格的に宗教に依存してるんだから無理

60 :名無しさん@涙目です。(中部地方):2011/07/07(木) 19:54:41.15 ID:f6nSVU9+0
聖書の記述に誤りのないのなら
外科手術なんて不要。信仰の力で病気や障害を直してくれ

63 :名無しさん@涙目です。(和歌山県):2011/07/07(木) 19:55:11.16 ID:2yZuUX/I0
キリスト教徒の論拠っていつも「だって聖書にそう書いてあるじゃん」だからな

67 :名無しさん@涙目です。(長崎県):2011/07/07(木) 19:55:41.74 ID:bZZtraqO0
信じたいものを信じればいいがな。
どっちが正しいかなんて、普通に生きてりゃどうでもいいことだし。

71 :名無しさん@涙目です。(catv?):2011/07/07(木) 19:56:14.13 ID:wPKWlcUC0
萌えラノベを人生のバイブルにしてるキモヲタレベル

73 :名無しさん@涙目です。(関東・甲信越):2011/07/07(木) 19:57:18.97 ID:U95RWFfHO
進化論に異を唱えるのは別にイイが
聖書が正しいってのは、ただのキチガイ

75 :名無しさん@涙目です。(長屋):2011/07/07(木) 19:57:57.60 ID:GS4QplmNi
進化論は間違ってるよ
羽が生えて空飛ぶとか、どんだけ計画的に何十万もの遺伝情報いじくらないといけないか
突然変異なんてせいぜい奇形しか生まれないからな
脳みそなんてCPU 並に設計しないとまずまともに動かんぞ

129 :名無しさん@涙目です。(山形県):2011/07/07(木) 20:06:54.71 ID:VpXQvksT0
>>75
数十億年続けてりゃ進化くらいするわ

77 :名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/07/07(木) 19:58:07.91 ID:gzutf2nf0
べつに、進化論信じてなきゃやれない職業でもないから、いいんじゃないの?
診察中にこんなこと言われたら嫌だけど

79 :名無しさん@涙目です。(福岡県):2011/07/07(木) 19:58:21.08 ID:+s+13Dto0
じゃあちょっくら神様に頼んで戦争無くしてくれよ
全知全能なんだろ

2012年4月17日火曜日


1@IȐlɉvƂȂl LXgɂȂ炢 g}XEAEPsX ڎ 1́@LXgɂȂ炢Anׂ̂Ă̂ނȂƂy񂶂邱 2́@ɑ΂Ăւ肭l‚ 3́@^̒m 4́@Tdɍs邱 5́@ǂނ 6́@䂳ĂȂ 7́@Ů]Ƙ玩RɂȂ 8́@KvȏɐeȂ 9́@]ƕ] 10́@ʂȂׂ邱 11́@𓾁ASؖ]邱 12́@t̉l 13́@UfɒR邱 14́@܂f邱 15́@̂ɂȂs 16́@҂̌_𕉂 17́@C 18́@kɂ莦ꂽ{ The Nineteenth Chapter. 20́@ǓƂƒق邱 21́@S̔߂݁iZj 22́@l̋ꂵ݂ɂ‚āiZj 23́@ɂ‚Ă̍l 24́@قƍ߂̔ 25́@̐lMSɉ߂邱 XV INTRODUCTORY NOTE The treatise "Of the Imitation of Christ" appears to have been originally written in Latin early in the fifteenth century. Its exact date and its authorship are still a matter of debate. Manuscripts of the Latin version survive in considerable numbers all over Western Europe, and they, with the vast list of translations and of printed editions, testify to its almost unparalleled popularity. One scribe attributes it to St. Bernard of Clairvaux; but the fact that it contains a quotation from St. Francis of Assisi, who was born thirty years after the death of St. Bernard, disposes of this theory. In England there exist many manuscripts of the first three books, called "Musica Ecclesiastica," frequently ascribed to the English mystic Walter Hilton. But Hilton seems to have died in 1395, and there is no evidence of the existence of the work before 1400. Many manuscripts scattered throughout Europe ascribe the book to Jean le Charlier de Gerson, the great Chancellor of the University of Paris, who was a leading figure in the Church in the earlier part of the fifteenth century. The most probable author, however, especially when the internal evidence is considered, is Thomas Haemmerlein, known also as Thomas a Kempis, from his native town of Kempen, near the Rhine, about forty miles north of Cologne. Haemmerlein, who was born in 1379 or 1380, was a member of the order of the Brothers of Common Life, and spent the last seventy years of his life at Mount St. Agnes, a monastery of Augustinian canons in the diocese of Utrecht. Here he died on July 26, 1471, after an uneventful life spent in copying manuscripts, reading, and composing, and in the peaceful routine of monastic piety. With the exception of the Bible, no Christian writing has had so wide a vogue or so sustained a popularity as this. And yet, in one sense, it is hardly an original work at all. Its structure it owes largely to the writings of the medieval mystics, and its ideas and phrases are a mosaic from the Bible and the Fathers of the early Church. But these elements are interwoven with such delicate skill and a religious feeling at once so ardent and so sound, that it promises to remain, what it has been for five hundred years, the supreme call and guide to spiritual aspiration. THE IMITATION OF CHRIST THE FIRST BOOK ADMONITIONS PROFITABLE FOR THE SPIRITUAL LIFE 1́@ CHAPTER I LXgɂȂ炢Anׂ̂Ă̂ނȂƂy񂶂邱 Of the imitation of Christ, and of contempt of the world and all its vanities uɏ]҂́AÈł̒Ƃ͂ȂvƎ͌܂(nl8:12)B He that followeth me shall not walk in darkness,(1) saith the Lord. ̃LXǧt́A These are the words of Christ; LXg̐lƐliɂȂ炢ȂƂAւ̃AhoCXłB and they teach us how far we must imitate His life and character, A{̈ӖŖڂo܂AŜׂĂ̖Ӗڂ玩RɂȂ肽Ɗ肤Ȃ΁AƂƂłB if we seek true illumination, and deliverance from all blindness of heart. łÁA傽w͂ACGXLXg̐lwԂƂɌ܂傤B Let it be our most earnest study, therefore, to dwell upon the life of Jesus Christ. LXg̋́Akׂ̂Ă̏f炵ALXg̗‚͉̂Bꂽ}i‚oł傤B 2. His teaching surpasseth all teaching of holy men, and such as have His Spirit find therein the hidden manna. イĂȂASɂƂ߂Ȃl񂢂܂B (2) But there are many who, though they frequently hear the Gospel, yet feel but little longing after it, ̓LXg̗Ȃ߂łB because they have not the mind of Christ. LXǧt\ɗƊ肤l͒NłȂSULXg̐UɈv悤ƂȂ΂Ȃ܂B He, therefore, that will fully and with true wisdom understand the words of Christ, let him strive to conform his whole life to that mind of Christ. AȂɂւ肭̐SȂĎOʈ̂̐_߂܂ƂAOʈ̂ɂ‚Ă̊w[c_邱ƂAȂɂƂĂǂȉvł傤B 3. What doth it profit thee to enter into deep discussion concerning the Holy Trinity, if thou lack humility, and be thus displeasing to the Trinity? lԂ𐹂Ȃ鑶݂␳݂ɂĂ̂͊wł͂܂B For verily it is not deep words that make a man holy and upright; ł͂ȂAPlA_Ɋ΂̂łB it is a good life which maketh a man dear to God. ́A߂܂`ł邱ƂA߂̐S‚Ƃ]݂܂B I had rather feel contrition than be skilful in the definition thereof. ׂ̂ĂmAׂĂ̓Nw҂̌mĂƂĂA_̌b݂ƈȂŐƂAǂȉvł傤B If thou knewest the whole Bible, and the sayings of all the philosophers, what should all this profit thee without the love and grace of God? 󂵂A󂵂A͋󂵂B Vanity of vanities, all is vanity, 󂵂Ȃ̂́AA_A_Ɏd邱ƂłB save to love God, and Him only to serve. ł傢Ȃmb That is the highest wisdom, \\ׂ͂̐Ď̂ċAV̌䍑߂邱ƂłB to cast the world behind us, and to reach forward to the heavenly kingdom. ʂĂx߁AʂĂx𗊂݂ɂ̂͋󂵂B 4. It is vanity then to seek after, and to trust in, the riches that shall perish. ܎^߁A遂荂Ԃ̂͋󂵂B It is vanity, too, to covet honours, and to lift up ourselves on high. Iȗ~]ǂ߂̂͋󂵂A₪ė鎞Ɍ]ނ̂󂵂B It is vanity to follow the desires of the flesh and be led by them, for this shall bring misery at the last. 邱Ƃ΂߁AP邱ƂCɂȂ̂͋󂵂B It is vanity to desire a long life, and to have little care for a good life. ݂݂̂CɂA₪Ăė邱Ƃ\Ȃ̂͋󂵂B It is vanity to take thought only for the life which now is, and not to look forward to the things which shall be hereafter. Ƃ܂ɉ߂̂Ai̊тǂɂ̂lȂ̂󂵂B It is vanity to love that which quickly passeth away, and not to hasten where eternal joy abideth. ⼌xvoȂB 5. Be ofttimes mindful of the saying, uڂ͌邱ƂɂĖȂA͕ƂɂĖ͂ȂviEccles. 1:8j (3) The eye is not satisfied with seeing, nor the ear with hearing. ڂɌ̂Ȃ悤w߁AAڂɌȂ̂ɐS悤w߂ȂB Strive, therefore, to turn away thy heart from the love of the things that are seen, and to set it upon the things that are not seen. ȂȂAg̓̓Iȗ~]ɏ]҂́AǐSɂ݂‚A_̌b݂󂵂Ă܂łB For they who follow after their own fleshly lusts, defile the conscience, and destroy the grace of God. (1) John viii. 12. (2) Revelations ii. 17. (3) Ecclesiastes i. 8. 2́@ CHAPTER II ɑ΂Ăւ肭l‚ Of thinking humbly of oneself l݂Ȓm߂͎̂RȂƂłB There is naturally in every man a desire to know, A_Ȃmɉ̂悢Ƃł傤B but what profiteth knowledge without the fear of God? ̉^sĎ̍𖳎Ăւ荂mlAւ肭Đ_ɎdĂcɎ҂̕Ƃ悢̂łB Better of a surety is a lowly peasant who serveth God, than a proud philosopher who watcheth the stars and neglecteth the knowledge of himself. g悭mĂĺA̖ڂɂɑʎ҂Ɖf悤ɂȂA He who knoweth himself well is vile in his own sight; lX_߂Ċ񂾂͂܂B neither regardeth he the praises of men. ̐̂ƂׂĒmĂƂĂAȂA̍sȂق_̑OŁA̒m̉vɂȂł傤B If I knew all the things that are in the world, and were not in charity, what should it help me before God, who is to judge me according to my deeds? mُȂقǂɖ]܂Ȃ悤ɂȂB 2. Rest from inordinate desire of knowledge, ̂悤ȏԂ͐S炾Af킹邩łB for therein is found much distraction and deceit. mĺAwς񂾎҂̂悤Ɍ̂D݁AlƌĂ΂̂DłB Those who have knowledge desire to appear learned, and to be called wise. mĂĂÂ߂ɂ܂ɗȂm͂񂠂܂B Many things there are to know which profiteth little or nothing to the soul. ČSȍɉvĂmȊOɐSĺAւłB And foolish out of measure is he who attendeth upon other things rather than those which serve to his soul's health. tĂA͖܂B Many words satisfy not the soul, ASȐ͐S炩ɂÂȂǐS͐_ɑ΂傫ȐM̔ONĂ܂B but a good life refresheth the mind, and a pure conscience giveth great confidence towards God. Ȃ̂ƂmA悭΂قǁAȂ̐炢ɐȂ̂ɂȂȂ΁AȂ̍ق͂ꂾȂ܂B 3. The greater and more complete thy knowledge, the more severely shalt thou be judged, unless thou hast lived holily. łAȂ̒mZp̂䂦ɌւĂ͂܂B Therefore be not lifted up by any skill or knowledge that thou hast; ւ̂ł͂ȂAȂɗ^ꂽ\͂̂䂦ɋȂB but rather fear concerning the knowledge which is given to thee. ȂÂƂmÂƂ\ɗĂƎvȂAƓɁAȂ͂̂ƂmȂ̂ƂƂoȂB If it seemeth to thee that thou knowest many things, and understandest them well, know also that there are many more things which thou knowest not. mbւ炸A̖mF߂ȂB Be not high-minded, but rather confess thine ignorance. ȂǂwсAȂĂl񂢂Ƃ̂ɁAȂAg̕𑼐lDꂽ҂Ǝv̂łB Why desirest thou to lift thyself above another, when there are found many more learned and more skilled in the Scripture than thou? Ȃl̂邱ƂwсAƖ]ނȂAł邱ƂAy邱ƂȂB If thou wilt know and learn anything with profit, love to be thyself unknown and to be counted for nothing. gmAƂɑȂ̂ƍl邱Ƃ͍őPłŠSȒmbłB 4. That is the highest and most profitable lesson, when a man truly knoweth and judgeth lowly of himself. ƂɑȂ̂ƍl邱ƁAɑ̐l̂Ƃ悭l邱ƂőPłAƂSȒmbłB To account nothing of one's self, and to think always kindly and highly of others, this is great and perfect wisdom. Ȃ̐l̍߂ڂ̓ɂA̐ldȍ߂̂ƂĂA͂̐lǂlԂƍlĂ͂܂B Even shouldest thou see thy neighbor sin openly or grievously, yet thou oughtest not to reckon thyself better than he, Ƃ̂́AȂԂɂ‚܂ł邱Ƃł̂AȂ͒mȂłB for thou knowest not how long thou shalt keep thine integrity. l݂͂ȁAキ낢̂łB All of us are weak and frail; AȂgԎキĂ낢̂ƔF߂ȂB hold thou no man more frail than thyself. 3́@ CHAPTER III ^̒m Of the knowledge of truth ے͂Ȃtł͂ȂA^̂̂{̎pĂl͍KłB Happy is the man whom Truth by itself doth teach, not by figures and transient words, but as it is in itself.(1) g̔f⊴óAނƂ悭A͐^̂̂قƂǂĂȂ̂łB Our own judgment and feelings often deceive us, and we discern but little of the truth. BĂ邱ƁAȂƂɂ‚Ă̋c_̉vɂȂł傤B What doth it profit to argue about hidden and dark things, mȂƂāAI̍ق̎ɐӂ߂邱Ƃ͂Ȃ̂ɁB concerning which we shall not be even reproved in the judgment, because we knew them not? ̉vƂȂKvƂȂ邱Ƃ𖳎āAɖ֌WȂƂLQȂƂɐŜ́AւɋȂƂłB Oh, grievous folly, to neglect the things which are profitable and necessary, and to give our minds to things which are curious and hurtful! ɂ͖ڂ‚Ă̂ɁAĂ܂B Having eyes, we see not. ȂA͓Nw̋^ɂǂ̂悤ɑΏ悢̂ł傤B 2. And what have we to do with talk about genus and species! ǐt肩Ă悤ȐĺA_gȂĂ邱Ƃł܂B He to whom the Eternal Word speaketh is free from multiplied questionings. ̌tƂȂꂽ炷ׂĂÂ͔̂ނɂ‚Č̂łB From this One Word are all things, and all things speak of Him; ď߂łɌĂ̂łB and this is the Beginning which also speaketh unto us.(2) ̌tȂł́AN蔻f肷邱Ƃ͂ł܂B No man without Him understandeth or rightly judgeth. He to whom it becomes everything, who traces all things to it and who sees all things in it, may ease his heart and remain at peace with God. The man to whom all things are one, who bringeth all things to one, who seeth all things in one, he is able to remain steadfast of spirit, and at rest in God. A_܁AȂ͐^̕AȂƈ‚ɂAï̂ɂĂB O God, who art the Truth, make me one with Thee in everlasting love. ͕ǂ񂾂肷邽̂ƂŐSY܂Ă܂B It wearieth me oftentimes to read and listen to many things; AȂ̂ɂA߂Ăׂ̂̂Ă܂B in Thee is all that I wish for and desire. m̂҂̌‚A Let all the doctors hold their peace; ׂĂ̔푢Ȃ̌OŐÂ܂点ĂB let all creation keep silence before Thee: AȂɂ肭B speak Thou alone to me. S߁ASPɂ΂قǁAȂ̂ƂՂ邱Ƃł܂B 3. The more a man hath unity and simplicity in himself, the more things and the deeper things he understandeth; and that without labour, ȂȂ炻̂悤ȐĺÂ߂̌V󂯂邩łB because he receiveth the light of understanding from above. ŁAPŁAłȐ_ĺA̘JŔYނƂ͂܂B The spirit which is pure, sincere, and steadfast, is not distracted though it hath many works to do, ̐lׂ͂Ă̂Ƃ_̉ĥ߂ɍsȂłB because it doth all things to the honour of God, ̐l͓Ȃ镽aył܂Aɑ΂ĂȒSȖړI߂肵܂B and striveth to be free from all thoughts of self-seeking. ܂̂ƂARg[ĂȂS̗~]قǁAƐS̔Y݂N̂͂܂B Who is so full of hindrance and annoyance to thee as thine own undisciplined heart? PǂŐM[ĺAȂ΂ȂƂŜŐ܂B A man who is good and devout arrangeth beforehand within his own heart the works which he hath to do abroad; ͎׈Ȑ琶ނCɏ]Ăł͂ȂA̖߂ɏ]ĂłB and so is not drawn away by the desires of his evil will, but subjecteth everything to the judgment of right reason. ̎lɂ悤Ǝ݂lقǁAꂵނƂ]VȂ̂ł͂܂񂩁B Who hath a harder battle to fight than he who striveth for self-mastery? łÂƂ̖ړIƂׂłB And this should be our endeavour, Ȃɑł‚ƁAƋȂ邱ƁAēɂđOi邱ƂłB even to master self, and thus daily to grow stronger than self, and go on unto perfection. ̐lɂẮAǂ̂悤ȊSȂ̂A̒ɕsS܂ł܂B 4. All perfection hath some imperfection joined to it in this life, ̒mK炩̈Èł܂ł܂B and all our power of sight is not without some darkness. gւ肭čl邱Ƃ̂قA[m߂邱ƂAmɐ_֎铹ƂȂ܂B A lowly knowledge of thyself is a surer way to God than the deep searching of man's learning. wԂƂ̂ł͂܂񂵁A܂młB ͂ꎩgƂĂ͗ǂ̂ƂĐ_ɒ߂Ă܂B Not that learning is to be blamed, nor the taking account of anything that is good; ǂȂƂłÂȂǐSƁAȂl̂قǂ̂łB but a good conscience and a holy life is better than all. ̐lAǂ邱ƂAm߂悤Ƃ߂ɁA߂AȂƂȂ肷ꍇ܂B And because many seek knowledge rather than good living, therefore they go astray, and bear little or no fruit. lXAc_ƂƓ悤ɒӐ[āAAtȂ΁A 5. O if they would give that diligence to the rooting out of vice and the planting of virtue which they give unto vain questionings: ̐ɂقLjƂXL_͂ȂA@IȑgDقǂ炵ȂƂ͂Ȃł傤ɁB there had not been so many evil doings and stumbling-blocks among the laity, nor such ill living among houses of religion. ͂茾܂Aق̎ɖ̂́A܂łǂȂ̂ǂłAł͂ȂA܂łǂȂƂĂAȂ̂łB Of a surety, at the Day of Judgment it will be demanded of us, not what we have read, but what we have done; ǂقǂ܂ĂAł͂ȂAǂقǑPĂÂłB not how well we have spoken, but how holily we have lived. Ă܂B Tell me, Ȃ悭mĂAȑOꏏɂĊwւĂLȎt搶A݂ǂɂ邩B where now are all those masters and teachers, whom thou knewest well, whilst they were yet with you, and flourished in learning? ̎t搶łɂ̒nʂđȂOɂ̒nʂɂl̂ƂȂǎvo܂B Their stalls are now filled by others, who perhaps never have one thought concerning them. ĂԁA͂ЂƂǂ̐l̂悤Ɍ܂B Whilst they lived they seemed to be somewhat, ƂȂĂ͎vo邱Ƃ͂قƂǂ܂B but now no one speaks of them. ̐̉h͉Ƃ΂₭߂邱Ƃł傤I 6. Oh how quickly passeth the glory of the world away! ނ̐ނ̊wƓ悤ɐi΁Aނ̌Ǐ͉l̂ƂȂł傤ɁB Would that their life and knowledge had agreed together! For then would they have read and inquired unto good purpose. IȂނȂmA_Ɏd邱Ƃ؂ɂȂ߂ɁAɑ̐lłт邱Ƃł傤B How many perish through empty learning in this world, who care little for serving God. ނ͎̂ʂڂ̂߂ɂނȂ̂ƂȂ̂łB ͔ނ炪ւ肭炸ɁȂȂ̂ɂȂ낤ƊłB And because they love to be great more than to be humble, therefore they "have become vain in their imaginations." {Ɉ̑ȐlƂ̂́A傢Ȃ鈤ĂlłB He only is truly great, who hath great charity. {Ɉ̑ȐlƂ̂́Ag̖ڂɂ͎ɑȂȎ҂łAō̉h_Ƃ͖̐lłB He is truly great who deemeth himself small, and counteth all height of honour as nothing. {ɌȐlƂ̂́AׂĂ̐IȂƂ납ȂƂƂ݂ȂALXg𓾂悤ȐlłB He is the truly wise man, who counteth all earthly things as dung that he may win Christ. _̈ӎuȂAg̈ӎûĂlA{ɊŵlȂ̂łB And he is the truly learned man, who doeth the will of God, and forsaketh his own will. (1) Psalm xciv. 12; Numbers xii. 8. (2) John viii. 25 (Vulg.). 4́@ CHAPTER IV Tdɍs邱 Of prudence in action S̏Փv‚ɏ]Ă͂܂B We must not trust every word of others or feeling within ourselves, ł͂ȂA͐_̌ŠɏƂ炵āAӐ[܂EϋlȂB but cautiously and patiently try the matter, whether it be of God. ߂ƂɁA͂ƂĂア߁A邱ƂȒPɐM݁A̐lP킸ɁAĂ܂łB Unhappily we are so weak that we find it easier to believe and speak evil of others, rather than good. ASȐlԂƂ̂́A\L߂l̂ƂȒPɂ͐M܂B But they that are perfect, do not give ready heed to every news-bearer, ȂȂAlԂ͎キ낢̂ňɊׂ₷A܂̎コ́A錾tɌ邱ƂmĂ邩łB for they know man's weakness that it is prone to evil and unstable in words. }ɍsAl̐l̈ӌɖӖړIɏ]ȂƁA 2. This is great wisdom, not to be hasty in action, or stubborn in our own opinions. lXƂׂĐMȂƁAɂ\bL߂肵ȂƂ́A傢ȂmbłB A part of this wisdom also is not to believe every word we hear, nor to tell others all that we hear, even though we believe it. ŗǐSIȐlɏ߂ȂB Take counsel with a man who is wise and of a good conscience; Ȃ̍lɏ]lł͂ȂAȂ悢lAhoCX󂯂ȂB and seek to be instructed by one better than thyself, rather than to follow thine own inventions. 悢ĺAlAl_֌킹܂B A good life maketh a man wise toward God, 悢ĺÂƂɂ‚ĐlɌoς܂܂B and giveth him experience in many things. ւ肭΂ւ肭قǁAl͐_ɑ΂ĂƏ]ɂȂA邱ƂɊւĂƌɂȂA͂ƕɂȂł傤B The more humble a man is in himself, and the more obedient towards God, the wiser will he be in all things, and the more shall his soul be at peace. 5́@ CHAPTER V ǂނ Of the reading of Holy Scriptures ^AI݂Ȍtł͂Ȃ^AǂނƂɒT߂ׂ̂łB It is Truth which we must look for in Holy Writ, not cunning of words. ׂ̂Ă̌́Aꂪꂽ_ēǂ܂Ȃ΂Ȃ܂B All Scripture ought to be read in the spirit in which it was written. ̒A͐ꂽ񂵂߂̂ł͂ȂAv߂ׂłB We must rather seek for what is profitable in Scripture, than for what ministereth to subtlety in discourse. łÁA[œ{ǂނ̂ƓAVvŃf{[ViȖ{ǂނׂłB Therefore we ought to read books which are devotional and simple, as well as those which are deep and difficult. ́A҂̊w󂢂Ƃ[ƂЂɍE邱ƂĂ͂Ȃ܂B And let not the weight of the writer be a stumbling-block to thee, whether he be of little or much learning, Ȑ^Ă邩ǂœǂނׂ𔻒fȂB but let the love of the pure Truth draw thee to read. NĂ邩q˂肹AĂ邩ɒڂȂB Ask not, who hath said this or that, but look to what he says. l͎ɂ܂B 2. Men pass away, A_̐^͉iɎc܂B but the truth of the Lord endureth for ever. lɂ‚Čڗ邱ƂȂA_͎ɂ܂܂ȕ@ʂČ̂łB Without respect of persons God speaketh to us in divers manners. ɂāAĂDS͐ǂލۂɖWƂȂ܂B Our own curiosity often hindereth us in the reading of holy writings, ́APɓǂŒʂ߂ׂ𗝉悤ƂAc_肵悤Ǝ]ނƂłB when we seek to understand and discuss, where we should pass simply on. łAǂʼnv𓾂悤Ɩ]ނȂAւ肭āAPɁAM‚ēǂ݂ȂB If thou wouldst profit by thy reading, read humbly, simply, honestly, wςނƂ_߂Cœǂł͂܂B and not desiring to win a character for learning. ǩtɂ‚ĎRɐqˁAӐ[ȂB Ask freely, and hear in silence the words of holy men; lt₪Ă͂܂B nor be displeased at the hard sayings of older men than thou, ̌t͖ړIȂꂽ킯ł͂ȂłB for they are not uttered without cause. 6́@ CHAPTER VI 䂳ĂȂ Of inordinate affections l͉܂ɂ~ƁAɕn߂܂B Whensoever a man desireth aught above measure, immediately he becometh restless. ×~Ȑl͌Ĉ炬𓾂邱Ƃ܂B The proud and the avaricious man are never at rest; ASnւ肭Ăl͕a̐Eɐ̂łB while the poor and lowly of heart abide in the multitude of peace. }ĂȂl͂ɗUfAĂȈɑłĂ܂܂B The man who is not yet wholly dead to self, is soon tempted, and is overcome in small and trifling matters. ̐l̗͎キA炩IiIjŁAoIȕɌX܂B It is hard for him who is weak in spirit, and still in part carnal and inclined to the pleasures of sense, Iȗ~]T邱Ƃ͂قƂǂł܂B to withdraw himself altogether from earthly desires. łA~]Ƃ͔ނ߂܂܂B And therefore, when he withdraweth himself from these, he is often sad, ̂悤Ȑl͂Ƃ߂ĂƂɕ𗧂Ă܂B and easily angered too if any oppose his will. Aꂪ~]𖞑ƁA̔Mɏ]Ƃ̂߂ɗǐS̙ӂނ̂߂A߂ĂւƓ邱Ƃ͂܂B 2. But if, on the other hand, he yield to his inclination, immediately he is weighed down by the condemnation of his conscience; AS̐^̕Ƃ̂́AMɒRƂɌôłāAM𖞑ƂɌôł͂܂B for that he hath followed his own desire, and yet in no way attained the peace which he hoped for. For true peace of heart is to be found in resisting passion, not in yielding to it. IȐlA󂵂͂ɖĂlɂ́A͂܂B And therefore there is no peace in the heart of a man who is carnal, nor in him who is given up to the things that are without him, MSŗIȐlɂ̂ݕ̂łB but only in him who is fervent towards God and living the life of the Spirit. 7́@ CHAPTER VII Ů]Ƙ玩RɂȂ Of fleeing from vain hope and pride lԂɁA邢͔푢ɐM҂͂ނȂB Vain is the life of that man who putteth his trust in men or in any created Thing. CGXLXg̈̂߂ɁA̐lXɎdA̐ŕnƌꂽ肷邱ƂpƎvĂ͂܂B Be not ashamed to be the servant of others for the love of Jesus Christ, and to be reckoned poor in this life. ̂Ƃłł낤ƂɁA_ɐMuȂB Rest not upon thyself, but build thy hope in God. Ȃ̗͂̒ɂ邱ƂsȂB Do what lieth in thy power, ΐ_͂Ȃ̂悢ӎuĂ܂B and God will help thy good intent. ̒mAȂl̒mbɑ΂ĂMuĂ͂܂B Trust not in thy learning, nor in the cleverness of any that lives, ނAւ肭lAĂlւ肭点_̌b݂ɐMuȂB but rather trust in the favour of God, who resisteth the proud and giveth grace to the humble. ȂɕxĂAւɎvĂ͂܂B 2. Boast not thyself in thy riches if thou hast them, ܂L͂ȗFlĂA̗FlւɎvĂ͂܂B nor in thy friends if they be powerful, ł͂ȂāAׂĂ̂̂^Ag^邱Ƃ]ł_ɉhAȂB but in God, who giveth all things, and in addition to all things desireth to give even Himself. lԂ̋̓IȔAƂaCŏ‚󂳂Ă܂悤ȓւĂ͂܂B Be not lifted up because of thy strength or beauty of body, for with only a slight sickness it will fail and wither away. Ȃ̍˔\\͂ւĂ͂܂B Be not vain of thy skilfulness or ability, ȂĂ邷ׂĂ̎^Ă_߂܂Ȃ悤ɂ邽߂łB lest thou displease God, from whom cometh every good gift which we have. ̐lɔׂĎĂƍlĂ͂܂B 3. Count not thyself better than others, l̂ɉ邩m̐_̑OŁA舫]󂯂Ȃ߂łB lest perchance thou appear worse in the sight of God, who knoweth what is in man. ̗ǂsւĂ͂܂B Be not proud of thy good works, _̍ق͐l̍قƂ͈قȂĂāAl΂̂A_߂܂̂͂悭邱ƂłB for God's judgments are of another sort than the judgments of man, and what pleaseth man is ofttimes displeasing to Him. Ȃ̒ɂ悢_ȂA̐l̒ɂƂ悢_oȂB If thou hast any good, believe that others have more, ΂Ȃ͂ւ肭܂܂ł邩łB and so thou mayest preserve thy humility. ̐l݂ȂƔrĎ͗Ăƕ]邱Ƃ͊Qɂ͂Ȃ܂B It is no harm to thee if thou place thyself below all others; AƂlɑ΂ĂA̕Ăƍl̂͂ƂĂLQłB but it is great harm if thou place thyself above even one. ւ肭ĺAaIɐ܂B Peace is ever with the humble man, ɑ΂āAl̐S̒ɂ͓i݂A‚{肪܂B but in the heart of the proud there is envy and continual wrath. 8́@ CHAPTER VIII KvȏɐeȂ Of the danger of too much familiarity ׂĂ̐lɑ΂ĐSĴ͂߂ȂB Open not thine heart to every man, kƂɂ͌Ő_lɂȂB but deal with one who is wise and feareth God. Ⴂl〈mʐlƕt̂͂߂ȂB Be seldom with the young and with strangers. ɂւ‚Ă͂܂B Be not a flatterer of the rich; ̂lƂ̎ЌDނ̂͂悵ȂB nor willingly seek the society of the great. ւ肭ĂlAPȐlAM‚̓ĂlA₩ȐlƕtȂB Let thy company be the humble and the simple, the devout and the gentle, ̐lƓ߂悤ȉbȂB and let thy discourse be concerning things which edify. Ȃ鏗Ƃe֌WɂȂȂ悤ɂAׂĂ̂悢_ɑE߂ȂB Be not familiar with any woman, but commend all good women alike unto God. _Ǝ̓VgƂ̂ݐe悤ɂAl璍ڂт邱ƂȂB Choose for thy companions God and His Angels only, and flee from the notice of men. ׂ͂Ă̐lȂ΂Ȃ܂B 2. We must love all men, AׂĂ̐lƐê͓ł͂܂B but not make close companions of all. ̐l܂mȂl̊Ԃł͕]ǂǁA̐l悭mĂl͑債]𓾂ĂȂƂƂAɂ̂łB It sometimes falleth out that one who is unknown to us is highly regarded through good report of him, whose actual person is nevertheless unpleasing to those who behold it. eđ΂ĂƎvĂÂق͎̌_ɋC‚ĎɕsɂȂƂƂ悭܂B We sometimes think to please others by our intimacy, and forthwith displease them the more by the faultiness of character which they perceive in us. 9́@ CHAPTER IX ]ƕ] Of obedience and subjection ]AƂ̂͂ւf炵ƂłB It is verily a great thing to live in obedience, ̑ȕ̂ƂŐAg̎ƂȂȂ̂͂ւf炵ƂłB to be under authority, and not to be at our own disposal. Ƃ̂́A邱Ƃ͖߂󂯂قƈSłB Far safer is it to live in subjection than in a place of authority. ̐l͈ł͂Ȃ̕Kv邩]܂B Many are in obedience from necessity rather than from love; ̂悤ȑԓxł́AƂɂĕs◎_ɂ‚Ȃ܂B these take it amiss, and repine for small cause. ނ́A_̈S]ƂȂẮAĐS̕𓾂邱Ƃ܂B Nor will they gain freedom of spirit, unless with all their heart they submit themselves for the love of God. Ȃǂ֍sƂAւ肭ČЂ郋[ɏ]ƂȂɂ͈͓܂B Though thou run hither and thither, thou wilt not find peace, save in humble subjection to the authority of him who is set over thee. ωN΂ƂAʂ̏ꏊɂ΍KɂȂƂ́A̐lf킵ė܂B Fancies about places and change of them have deceived many. ͂茾Ă܂AׂĂ̐l̊Ԃ悤ɕsƊ肢A܂Ɏ^lɖĂ܂B 2. True it is that every man willingly followeth his own bent, and is the more inclined to those who agree with him. ȂA_̊ԂɂȂAaƂj𓾂邽߂ɁÄӌ邱Ƃɂ͕KvłB But if Christ is amongst us, then it is necessary that we sometimes yield up our own opinion for the sake of peace. ɁAׂĂ̊SȒm‚قnjȐlԂȂǂł傤B Who is so wise as to have perfect knowledge of all things? g̈ӌMpȂ悤ɂAő̐l̈ӌɎXȂB Therefore trust not too much to thine own opinion, but be ready also to hear the opinions of others. AƂȂ̈ӌǂƂĂA_̈̂䂦ɑ̐l̈ӌ󂯓ȂAȂ͂Ȃ郁bg𓾂ł傤B Though thine own opinion be good, yet if for the love of God thou foregoest it, and followest that of another, thou shalt the more profit thereby. Ƃ̂́AAhoCXɎXĂ󂯓قAAhoCX^邱ƂSłAƂƂ悭łB 3. Ofttimes I have heard that it is safer to hearken and to receive counsel than to give it. ̈ӌǂƂĂA It may also come to pass that each opinion may be good; ȗR@̂ɑ̐l̈ӌۂƂ̂́AvChł킷VOiłAƂƂ肦܂B but to refuse to hearken to others when reason or occasion requireth it, is a mark of pride or wilfulness. 10́@ CHAPTER X ʂȂׂ邱 Of the danger of superfluity of words lX̃SVbv͉"\ȌȂB Avoid as far as thou canst the tumult of men; ȂȂAl͋hɂĂɗUf߂Ă܂̂ŁAIȎɊւc_́AȂ̂łɂA̐S傢ɗƂɂȂ邩łB for talk concerning worldly things, though it be innocently undertaken, is a hindrance, so quickly are we led captive and defiled by vanity. ͉xAȂ̕aۂlXƊւȂōς߂΂悩̂ɁAƎv܂B Many a time I wish that I had held my peace, and had not gone amongst men. ܂AǂĎ́Abʘb̂ł傤B But why do we talk and gossip so continually, ǐSY܂ƂȂbIƂƂ͂߂ɂȂƂ̂ɁB seeing that we so rarely resume our silence without some hurt done to our conscience? ́Ả݂b猳C𓾁A܂܂ȍlɔY܂ĂCyɂȂ肽ƎvĂ̂łB We like talking so much because we hope by our conversations to gain some mutual comfort, and because we seek to refresh our wearied spirits by variety of thoughts. ̂悤Ȃ킯ŁÁAƂĂDޕA[Ă镨ɂ‚Čl肷邱ƂɍDނ̂łB And we very willingly talk and think of those things which we love or desire, or else of those which we most dislike. A߂ƂɁA͖ړIłɌ邱Ƃ悭܂B 2. But alas! it is often to no purpose and in vain. ̊OIȊт́AIŐȂԂ߂‚Ă܂łB For this outward consolation is no small hindrance to the inner comfort which cometh from God. łAʂɎԂ߂Ȃ悤ɒӂČAFȂ΂Ȃ܂B Therefore must we watch and pray that time pass not idly away. ēK؂ȌׂƂȂ΁Al̓߂悤ȂƂȂB If it be right and desirable for thee to speak, speak things which are to edification. KIȐiɑ΂閳֐ŚAォ̖h菜Ă܂ʂ܂B Evil custom and neglect of our real profit tend much to make us heedless of watching over our lips. ɑ΂ėIȂƂɊւMSȉb́AIȐiɑ傢Ȃ鏕ƂȂ܂B Nevertheless, devout conversation on spiritual things helpeth not a little to spiritual progress, SƗlX_ɂďWĂƂɂ͓ɂłB most of all where those of kindred mind and spirit find their ground of fellowship in God. 11́@ CHAPTER XI 𓾁ASؖ]邱 Of seeking peace of mind and of spiritual progress Aľsɑ΂āAւȂȂA͂ƕ󂷂邱ƂɂȂ͂łB We may enjoy abundance of peace if we refrain from busying ourselves with the sayings and doings of others, ȂȂAľsƂ͎̂Ƃ͖֌WłB and things which concern not ourselves. ȊO̎ɂĂlAςC炵΂苁߂lAēIȎvقƂǍsȂ悤ȐlAǂ畽̂ɒ邱Ƃłł傤B How can he abide long time in peace who occupieth himself with other men's matters, and with things without himself, and meanwhile payeth little or rare heed to the self within? VvȐSŽ҂͍KłB Blessed are the single-hearted, ̐l͕ՂƎ󂯂邩łB for they shall have abundance of peace. ȂAk̒ɂ͂߂ĊSŁA߂Ďv[l̂ł傤H 2. How came it to pass that many of the Saints were so perfect, so contemplative of Divine things? ȂȂAނ͎̓ȂA̗̐~]OIɗ}悤ƂłB Because they steadfastly sought to mortify themselves from all worldly desires, Ă̂߁Aނ͐S玩g_ɓY킹A̍œ̍lɏW邱ƂRɂł̂łB and so were enabled to cling with their whole heart to God, and be free and at leisure for the thought of Him.

2012年4月14日土曜日

こだわりの一品 ::: マレーシアごはんの会



2011.12.10 (写真をクリックすると大きくなります☆)

先日、アメリカのニュース局CNN・アジア地区の観光情報を提供するサイトが発表した2011年の世界で人気の美食、堂々の第7位にて、マレーシアの料理"ペナンアッサムラクサ"がランクインしました。

一度食べると忘れられない料理。かなりの通好みで、ハマってしまうと抜け出せなくなる危険なヤツ。ドリアンみたいなもんね。「あの味が好きなんだ」って言える自分に、「私、けっこうヤルね!」とニヤリとします。

とにかく、匂うんです。

今は懐かしさもあいまって、食べたーい!とワクワクするのですが、マレーシアに住んでいたころはショッピングセンターの一角で、ぷおーんと漂う刺激臭に、やられておりました。まさしくドリアンと同じ。匂いに打ち 勝った勇気あるものだけが味わえる、美味なのです。

スープは、魚のダシ。それもアジやサバなどの青魚の身をすりつぶして作るもので、魚の身もスープに入っていて、ドロドロです。

こんな強烈な料理ですから、日本人に需要があるわけがなく、日本で食べられるところはほとんどないのですが、なんと!池袋の「マレーチャン」では、グランドメニューとして存在しています!さすが福沢ママ。マレーシア料理の本物を伝えたい、という心意気が、この料理をグランドメニュー化させています。

それも、マレーシアから取り寄せた、本物のラクサ麺なのです!

タピオカ粉と小麦粉でつくる中太のツルッとした麺。色白のかわいいやつです。

味は、マレーシアのよりもちょっぴり控え目でマイルドですが、それでもやっぱり匂いはぷおんと来るので、心して挑戦を。アッサムとよばれる、タマリンドの酸味とチリが効いていて、さっぱり食べられます。

ペナンアッサムラクサのポイントは、写真のように、レンゲに乗った黒いやつ。
ちなみに、アッサムラクサというメニューもありますが、アッサムラクサにはこの黒いやつは乗っていません。ペナンアッサムラクサよりもさらっとしたスープで、食べやすくなっています。

この黒いやつは、ブラチャンとよばれる海老を発酵させたペーストをお湯で溶いたもの。深みの出る味で、とってもおいしいのですが、こやつが匂いの源。入れる分量はお好みで。
トムヤンクンとはまったく違うけど、辛酸っぱい料理と大胆にくくってしまえば、ジャンルは同じかもしれません。トムヤンクン好きなら、ぜひ!

マレーチャンの公式Webはこちら
ペナンアッサムラクサ(メニューではラクサ麺・LAKSA NOODLと表示): 
ディナーメニューのみ 1人前1260円


2011.10.7 (写真をクリックすると大きくなります☆)

マレーシアの国の宗教はイスラム教です。国民の65%を占めるマレー系マレーシア人が信仰しています。

イスラム教にはいくつかのルールがあり、その1つがハラル。ハラルとは、イスラムの法律にのっとった食事法のことで、たとえば、豚肉は食べない、アルコールは飲まない、牛、鶏、羊を食べることはOKだが、ハラルにのっとった解体法が必要など。お肉を解体できるのはムスリム(イスラム教徒)のみ、お祈りをしたり、血抜きの方法など、解体法は細かく定められています。

このハラルという認証。マレーシアであれば、どんなに小さな地元スーパーでもハラル認証つきのお肉が手に入りますが、日本ではそうはいきません。そのため、日本に住むムスリムの方 たちは、ネットの専門サイトでハラル肉を注文するのです。この場合のお肉はほぼすべて輸入牛。日本人のムスリムはほとんどいませんものね。

でも、日本の高級和牛(とくに神戸牛)がやわらかくて、おいしいというのは世界中のムスリムが知っています。ハラルの和牛が食べたい!と希望するムスリムは大勢いるのです。この願い、日本に住んでいるイスラム教徒の方ならなおさらのこと。

そこで、世界中のムスリムのために、ハラルにのっとった和牛を生産しよう!と立ち上がったのが、虎の門に本社を構えるハラルコーポレーション。前回、レポートしたハラル焼肉「牛門」の立役者でもあり、ネットショップにてハラル和牛を販売しています。

こちらが、ネット注文で届いたハラル認証付きの宮崎産のハーブ牛。� ��ール宅急便で到着。しっかり凍っているので、使うときは半日ほど冷蔵庫内で解凍をしてから調理します。

真ん中下の青いマークがハラル認証。ハラル確認の資格をもつラジブさんが認証印を押します。

角切り肉。凍っていたお肉なのに、真空パックのおかげで、肉汁のドリップはほとんどなし。表面をキッチンペーパーで軽く押さえれば、こんな美しいお肉に。スーパーで購入する肉よりもかなり質が高いのです。

このお肉で、ビーフレンダンを作ってみました。ひと晩スパイスでマリネしたハラル和牛をココナツミルクで煮込んで。レシピは、こちらに掲載しているのでぜひ。
レシピはこちら

食べてみて、正直、びっくり。めっちゃ、やわらかーい!

1時間ほど煮込むと、ほろっと箸で切れるやわらかさ。マレーシアにいるときは、ハラルの牛肉は硬い、というイメージを持っていましたが、これは全然違います。やっぱり和牛ってすごいんですね、感動。角切りのお肉は煮込むほどに味が出てとてもやわらかくなるので、カレーやビーフシチューにもぴったり。

このハラル和牛、手料理でムスリムの人をもてなす際にオススメです。このやわらかさを味わってもらえたら、日本の良さを実感してくれるはずですから。(音)

マレーシアハラルコーポレーションの公式Webはこちら
商品の一例:
ハラル宮崎ハーブ牛 焼肉セット(カルビ、ロース、モモ 各100g)300gで1,580円など


2011.8.7 (写真をクリックすると大きくなります☆)

ハラル焼肉。日本人にはピンとこない言葉かと思いますが、イスラム教徒のためのハラル牛肉を使った焼肉のことです。

マレーシアには、日本式、韓国式の焼肉店がいくつかあります。ですが、そこで提供されているハラル牛肉は、ほとんどオーストラリア産。マレーシアでは、日本の和牛や国産牛はハラルとして認定されておらず、イスラム教徒の人が和牛の焼肉を食べることはできません。

2012年4月13日金曜日

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▲謌サ繧

 

2012年4月11日水曜日

こころの病気の子どものケア | OKWave


担当医や、かかりつけの精神科医がいるのであれば、
その方に聞くのが一番いい方法です。

心の病気を抱える方の中には、
同じような病気の方と接することで、
悪化する方がいらっしゃるのは事実です。

2012年4月10日火曜日

エヴァンゲリオンのFAQ


エヴァンゲリオンのFAQ

 


  1. キャラクターの名前の意味は?
  2. .人類補完計画とは?..
  3. 生命の木とは?..
  4. 使徒とは何か?.
  5. 死海文書とは.
  6. カヲルの言葉の意味は?
  7. マギシステムとは?
  8. サードインパクトとは?
  9. ネルフのマークの意味は?
  10. エヴァは悪魔か?
  11. 三位一体の意味は?
  12. ゲンドウがリツコに、最後にいった言葉は?(2006/2/19追加)

キャラクターの名前の意味は?

名字が軍艦や小説から来ていることは有名ですが、それらは大して重要ではありません。問題は名前です。シンジは神児、レイは霊、ゲンドウは言動です。

つまり、ゲンドウは新約聖書の「初めに言葉ありき。言葉は神と共にあり。」から来ており、要するに父なる神で、シンジが父なる神の息子です。そして、この3人で、カトリックの最重要教義「父と子と精霊」という三位一体の教義を表しています。この意味についてはまた別論しますが、ここでは、精霊は父と子の仲介役を果たすとだけいっておきます。

ミサトは「ミサを司る人」でしょう。彼女の黒いブラウス及び常に胸にかけある十字架がそれを意味します。

リツコは律子でしょう。律法からきています。律法とはユダヤ教の教義ですが、この場合、マギシステムにより神児をサポートするという彼女の役割が出ています。また、彼女の容姿は歌手のマドンナに似ていますが、これも、マドンナ(聖母)という関連でしょう。余談ですが企画資料によると彼女はパンクです。

 

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人類補完計画とは?

ひとまず本文参照願います。すぐに、もっと詳細な説明を載せます。

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生命の樹とは?

旧約創世記に出てくる、エデンの中央に生えている木です。これに生えている実を食べると不老不死となれるものです。神は、人間が知恵の実を食べたからエデンから追放したわけではなく、人間が生命の樹に到達することを怖れて追放したのです。生命の実と知恵の実の両方を食べると、神と等しい存在になることができるからです。

ちなみに使徒とは、生命の実のみを食べたヒトということです(参考:使徒とは何か)。生命の実を食べると、永遠の命を手にするかわり、種としての生命がなくなると考えられます(参考:カヲルの言葉の意味)。

 

2012年4月9日月曜日

お心一つで、いやしていただけます


 本日は、ルカ伝5章12−16節の「全身ツァラアトの人の癒し」の記事を見てみたいと思います。新改訳聖書第三版は、<ツァラアト>というヘブライ語をそのままを使用していますが、これは「汚れ」や「しみ」を意味します。人間に使用された場合、大変に治りにくい皮膚病のことであって、現在のハンセン病も含む皮膚に病変を起こす幾つかの病気が考えられています。70人訳と呼ばれるギリシャ語旧約聖書では、これに「レプラ」という単語を当てています。「レプラ」とは、「うろこ」という意味の名詞(レピス)に由来する言葉です。皮膚が鱗状の病変に覆われたことから、この名が付けられたと思われます。<ツァラアト>は、人間の病気以外にも、家屋の壁や衣服に発 生するある種のカビをも含むものでした。

 この病気は、モーセの律法では、儀式的に「穢れる」とされて、社会的に隔離されたのです。隔離された理由は、後で触れたいと思います。ある町で、イエスのもとに<全身ツァラアトの人>がやってきて、イエスに病の癒しを願い出ました。この患者の信仰には、大変に顕著な特徴が見られます。そのことを中心に、今日は話を進めたいと思います。

(1)全身ツァラアトの人

ツァラアトの患者

さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。
              ルカ5:12前半

 先ず、12節の前半をご覧ください。ここに、<全身ツァラアトの人>が登場します。この病気の治療は、当時は大変に困難でした。特に、真正なハンセン病の場合は、直ることは100%絶望的でした。しかも、社会的に隔離されて、家族とも離れて暮らさなければならないのです。孤独と不安に心が蝕まれながら、死を待つしかない病気であったのです。

 ハンセン病は、ノルウェー人ハンセンが1871年にらい菌という結核菌に似た細菌によって発病することを明らかにしました。感染してから、3-5年、あるいは数十年の潜伏期を経て、発病するとされています。1941年にガイ・ヘンリー・ファジェットという医師がプロミン(サルファ剤の一種)という特効薬を発見して以来、現在ではハンセン病は治る病気になりましたが、これ以前には、この人のように、<全身>に症状が現れて、重症化するケースがまれではありませんでした。その場合、肉体的な苦痛とともに、外見的にも大変な重荷を負うことになったのです。

罪のアナロジーとして

2012年4月7日土曜日

新年ギター自慢し愛会 を開催しました|3104丁目のギターショップに足を向けろ


ロンドンから帰国して、ゆっくり。。。。

しているわけがありません!!

ギターの友人Kさんと新年早々、男二人で

ギター自慢し愛会 

を池袋の某スタジオで開催しました。

愛はギターへの愛をこめて勝手に命名した次第です。

持っていけるのは2本が限界です

電車の中、どでかいものを2つも持っていたので、好奇の目にさらされながら、
いろいろな方に迷惑をかけてしまいました。
写真は山手線の中です

また体のバランスをおかしくして今も腰が痛いです  笑

じゃーん !!

↑ 

書いていて恥ずかしくなりましたが、正直な心境なのでそのままにしておきます