2012年4月9日月曜日

お心一つで、いやしていただけます


 本日は、ルカ伝5章12−16節の「全身ツァラアトの人の癒し」の記事を見てみたいと思います。新改訳聖書第三版は、<ツァラアト>というヘブライ語をそのままを使用していますが、これは「汚れ」や「しみ」を意味します。人間に使用された場合、大変に治りにくい皮膚病のことであって、現在のハンセン病も含む皮膚に病変を起こす幾つかの病気が考えられています。70人訳と呼ばれるギリシャ語旧約聖書では、これに「レプラ」という単語を当てています。「レプラ」とは、「うろこ」という意味の名詞(レピス)に由来する言葉です。皮膚が鱗状の病変に覆われたことから、この名が付けられたと思われます。<ツァラアト>は、人間の病気以外にも、家屋の壁や衣服に発 生するある種のカビをも含むものでした。

 この病気は、モーセの律法では、儀式的に「穢れる」とされて、社会的に隔離されたのです。隔離された理由は、後で触れたいと思います。ある町で、イエスのもとに<全身ツァラアトの人>がやってきて、イエスに病の癒しを願い出ました。この患者の信仰には、大変に顕著な特徴が見られます。そのことを中心に、今日は話を進めたいと思います。

(1)全身ツァラアトの人

ツァラアトの患者

さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。
              ルカ5:12前半

 先ず、12節の前半をご覧ください。ここに、<全身ツァラアトの人>が登場します。この病気の治療は、当時は大変に困難でした。特に、真正なハンセン病の場合は、直ることは100%絶望的でした。しかも、社会的に隔離されて、家族とも離れて暮らさなければならないのです。孤独と不安に心が蝕まれながら、死を待つしかない病気であったのです。

 ハンセン病は、ノルウェー人ハンセンが1871年にらい菌という結核菌に似た細菌によって発病することを明らかにしました。感染してから、3-5年、あるいは数十年の潜伏期を経て、発病するとされています。1941年にガイ・ヘンリー・ファジェットという医師がプロミン(サルファ剤の一種)という特効薬を発見して以来、現在ではハンセン病は治る病気になりましたが、これ以前には、この人のように、<全身>に症状が現れて、重症化するケースがまれではありませんでした。その場合、肉体的な苦痛とともに、外見的にも大変な重荷を負うことになったのです。

罪のアナロジーとして


成功した結婚を持ってする方法
ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。  ローマ5:12

 モーセの律法において、<ツァラアト>と呼ばれる特定の病気を「穢れている」として、社会的な隔離を命じた理由について、考えてみましょう。(実は、公衆衛生上の目的があったとする意見がありますが、今日はこれには触れません。)先ず、モーセの律法が何のために与えられたか、という観点を明白にしなければなりません。そのような全体的な観点から、答えを見つけるべきだと思います。

 ユダヤ教では、モーセの律法は正しい人間になるための指針であると考えます。しかし、使徒パウロは、人間に自分が罪人であることを自覚させるのが、律法の目的であると教えました。これが、キリスト教の律法の理解なのです。このような使徒パウロの観点から、<ツァラアト>という病気を考えるべきだと思います。すなわち、この病気が罪のアナロジー(類似)として、罪人としての人間の現実を教えるものとして利用されたということではないでしょうか?第一の類似点は、伝搬性があるということです。ハンセン病は、弱いながら伝染力がありました。罪人としての性質は、始祖アダムから伝えられますが、この伝搬力は100%なのです。ローマ5:12をご覧ください。ここには、罪の普遍的な伝搬性について書か� ��ています。すなわち、<ひとりの人>=アダムにおいて、全人類は罪を犯し、罪人としての性質が伝播されたのです。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。  ヤコブ1:14-15

 第二の類似点は、根治するのが困難であることだと思います。いろいろな宗教や倫理をもってしても、罪人であることを改めることは決してできないのです。また、個人的な意味でも、罪は最初は小さな種であったものが大きな結末に至ることがあるのです。

 ヤコブ1:14-15をご覧ください。ここに出てくる<欲>(エピスゥミア)は「突進する」という意味があり、「激しい欲情」を指しています。それは、最初はそれぞれの人の中にある「小さな種」として秘められているかも知れませんが、それが次第に勢力を増して、<罪を生み、(その)罪が熟すると死を生みます>。この<死>(サァナトス)とは、「霊的な死」を意味し、神との断絶を指しているのです。すなわち、<ツァラアトの人>とは、人間の内面を啓示しているのです。それは、私であり、あなたであり、全人類なのです。モーセの律法の<ツァラアト>の規定は、このように理解できるのではないでしょうか?  

(2)癒されるプロセス

ツァラアトの人の信仰


心配を克服する方法についての説教
この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。 新共同訳 ルカ5:12

  次に、<全身ツァラアトの人>が癒される過程を辿ってみましょう。12節の後半をご覧ください。上記は、新共同訳ですが、彼は、<イエスを見てひれ伏し、…願った>とあります。どんなことを、彼は願ったのでしょうか?原語の意味を再現すると、「そうしたいと願われるなら、あなたは私をきよくすることがおできになります」となります。彼の言いたいことは、「あなたには癒す権威をお持ちだから、私が癒されるかどうかは、あなたの御心次第です」ということなのです。

  彼のこの告白は、癒されるためには、克服されるべき二つの関門があることを明白にしていると思います。第一は、「イエス様には、おできになります」というイエスの権威への信仰なのです。このような信仰が、未来を開く鍵なのです。ルカ伝1:37をご覧ください。

神にとって不可能なことは
一つもありません。  ルカ1:37

 これは、天使ガブリエルが、受胎告知の場面でマリヤに告げた言葉です。神にはあらゆることが可能なのだという、神の全能の啓示ですね。<全身ツァラアトの人>には、自分の不治の病でも、神は癒すことができるはずだ、という神の力への信頼がありました。これが、第一の関門です。

 ところが、神が全能なら、現実はなぜこうなのだ、と疑問を呈する人が多いのです。というよりも、ほとんどの人がその点で躓くのです。これが第二の関門なのです。全能の神がおられるなら、なぜ戦争があり、自然災害があり、病気があり、老いがあり、死があるのか、すなわち、こんなに悲惨が世界に満ちているのか、というのです。神が全能なら、悪を滅ぼし、戦争も病気も死もなくし、いじめも不公平もなくし、世界平和を実現できるはずなのに、現実はそうではない、ということは、神が存在しないか、存在しても人間に関心がなく、愛してもいないかのどちらかだ、というわけですね。

躓きを克服する


表示されません人ほど盲目のどれもありません
愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。    詩篇14:1

 古代のユダヤ人にとって、最も不幸なこととされたのは、子どもが産まれないことでした。家系の断絶は、最大の災いだと考えられたからです。しかし、その最大の災いよりも、はるかに不幸なのが<ツァラアトの人>なのです。彼は、家族も財産も身分も希望も未来も、何もかもなくしたのです。なぜ、自分がこんなむごい目に遭わなければならないのか、理解に苦しんだに違いありません。『ツァラトゥストラはかく語りき』というニーチェ(1844-1900)の代表作とされる本があります。その中で、「神は死んだ」(Gott ist tot.)ということが繰り返されます。人間世界の現実を観察してみて、どこに神がいるのか、とニーチェを代弁して、ツァラトゥストラは説いて回るのです。

 詩篇14:1をご覧ください。「神の死」、あるいは「神の不在」を表明した人は、ニーチェが初めてではありませんでした。遥か昔から、そう考える誘惑は常にあったのです。ここでは、「神はいない」とは、<愚か者>の前提だとされています。なぜでしょうか?第一に、「神はある」からです。このことは後に取り上げたいと思います。第二に、「神はいない」という前提に耐えられる人はいないからです。ニーチェは、神の代わりに、「超人」に未来を託しました。超人的な人間が、不条理と虚無しかない世界の中で、神の代わりに人間の存在に意味を創造するだろうと期待したのです。しかし、彼は後に発狂してしまいます。「神は死んだ」という前提がもたらす大きな重荷を連想します。彼とは対照的に、<全身ツァラアトの� ��>は、理不尽な境遇の中で、神を信じることを選んだのです。「神はある」と「神はいない」は、どちらかを選び取べき前提としてあるのです。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
     詩篇119:71

  詩篇119:71をご覧ください。詩人は、<苦しみに会った>と告白しています。それは、一見理不尽に思えものであったかもしれません。ニーチェならば、「神はいない」証拠にしたかも知れませんね。

  しかし、詩人は、その中に神の摂理を見たのです。世界に起こり来る悲劇をことごとく合理的に説明できる人間は誰もいません。そこが無神論やニヒリズムが入り込む余地となります。しかし、聖書は、理不尽に見える中にも、神の摂理があり、それに委ねて生きることを教えるのです。それが信仰なのです。このような歩みの中で、<苦しみ>でさえ<私のしあわせ>であると納得したことを、詩人は証ししているのです。

(3)いやしが意味するもの

神の主権に委ねる


神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。
             詩篇139:17

 以上のことが、癒されるための第二の関門なのです。すなわち、「神よ、あなたは癒すことがおできになるのに、なぜ癒してくださらないのですか?あなたには不可能なことは何もないと仰るのに、なぜ私をこんなに惨めなままで放っておかれるのですか?」ということなのです。私のこのような酷い現実を前にして、神はなぜ沈黙しているのか、というテーマの本は幾つか出ていて、よく売れているようです。ということは、この問題で悩んでいる人が多いということなのです。この疑問の解決の糸口は、すでに紹介しましたが、もう一つ、<ツァラアトの人>が採った道を見てみましょう。

 それは、12節で<御心ならば>と表現されたものです。<御心ならば>という仮定は、何を意味するのでしょうか?それは、「癒しが御心でない」という可能性を認めているということではないでしょうか?癒しが御心だと思っていたのなら、「御心だから、癒してください」と願ったはずです。理不尽に思える自分の境遇も、神の摂理の下にあって、自分の病気も何かの意味があるのだろうと、彼は考えたのだと思います。この点で、彼の信仰は、大変に優れているのです。

 詩篇139:17をご覧ください。神の計画の総計は無限なのです。とうてい、人間の理解を越えています。また、神の計画は、永遠という視野の中で、設計されたものです。一方で、人間は、無限のページが永遠に続く小説のほんの一部しか読めないのです。しかも、死という扉の向こうに、本当の結末があるので、途中までしか読めないのです。こういうわけで、推理小説の始めの部分しか読めない読者と同じなのです。最初の部分で、事件が起こり、ある人が不幸になります。しかし、最後はハッピーエンドかも知れません。しかし、その最後まで読むことができないと、読者は葛藤するのです。このように、途中までしか読めない読者に、人間は似ているのです。ストーリーを最後まで読めない人間は、どうすればよいのでしょ� �か?究極的には、神の善意に委ねるしかないのです。これが信仰なのです。<御心ならば…>とは、「神よ、あなたの御心は最善ですから、御心を行ってください」という、彼の信仰を表明しているのです。

 神の憐れみ


イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」   マルコ1:41

  マルコ1:41をご覧ください。ここは、ルカ伝の並行記事ですが、<イエスは深くあわれみ>というフレーズが印象的です。実は、この<あわれむ>(スプランクゥニゾマイ;内臓(心情の座)までが動かされるという意味)とは、ヘブライ語の「あわれみ」(ラハミーム)という概念から影響されていると考えられています。それは、「レヘム」(胎盤)の中の子どもを慈しむ母の愛なのです。<イエスは…手を伸ばして、彼にさわっ(た)>とあります。<ツァラアト>の皮膚は肥厚し醜く変形していたことでしょう。しかし、イエスは彼のその患部に触って、<わたしの心だ。きよくなれ。>と言われたのです。マルコは、このようなイエスの行為に、「神のラハミーム」を見たのです。

 <ツァラアトの人>が、なぜこんなむごい半生を送らなければならなかったのか、ストーリーの一部しか読めない人間には誰も応えることができません。しかし、ただ言えることは、「神のあわれみ」が彼に示されたことです。というより、彼のこれまでの人生にも、それはあったのです。ですから、理不尽に思える中でも、「神のラハミーム」に委ねて、解決を祈り求めることなのです。その祈りは、時が来たら聞かれる、そのように、<ツァラアトの人>は、私たちに語り掛けているように思えます。



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