■[読書][小説]マリーズ・コンデ『わたしはティチューバ セイラムの黒人魔女』
虐げられし者
この小説は、17世紀終わりにアメリカのセイラムで起きた魔女裁判の容疑者、ティチューバ・インディアンの一人称の語りという体裁をとっている。
ティチューバは母親がアフリカからカリブ海のバルバドスへと渡る奴隷船の中で白人男性に強姦されたときにできた混血の子供である。それでも母親は同じ黒人奴隷の男性と事実上の夫婦関係になり、ティチューバは血の繋がっていない父親から愛情を受けて育つが、彼女がまだ子供のころ母親は主人を短刀で傷つけて縛り首になり、義父も自殺してしまう。
一人ぼっちになったティチューバはママ・ヤーヤという魔術師に引き取られて魔術を学ぶが、ママ・ヤーヤが死ぬとジョン・インディアンという黒人奴隷と夫婦になる。そして主人に連れられてボストンからセイラムへと移り住むのだが、そこでティチューバは他の二人の女性とともに魔女の嫌疑をうけ、逮捕されてしまうのである。このように、これは一人の黒人女性の受難の物語だ。
アメリカ史上有名なセイラムの魔女裁判だが、これは『アダムの堕落においてわれらすべてが罪あるものとなれり』『わたしの額に罪のしるし。それは消せない』といった陰鬱で抑圧的な清教徒教育を受け、閉鎖的な環境に鬱屈した子供たちが、黒人奴隷のティチューバを陥れるために始めたいたずらがきっかけだった。女の子たちはティチューバの姿を見るとわざとらしく唸り声をあげ、何かに取り憑かれたかのようにのたうち回るという芝居を演じたのだ。しかもその子供たちはティチューバが親身になって世話をしてきた、主人の娘たちであり、それまではティチューバと仲良くしていたのだった。
初めこそたいした騒ぎにもならなかったが、しだいに魔女の噂が周囲のコミュニティーにも広まり、集団ヒステリー的な現象が関係ない子供たちにまで起こるようになる。それがきっかけで住民の間に長い間くすぶる対立に火がつき、大人たちがこの機会を利用して自分の敵を魔女として告発し始めたのである。ティチューバも結果的にその片棒を担ぐことになった。
"避妊 - なぜない"
ティチューバは、当時の社会において考えられる限りのありとあらゆる負の性質を背負っていた。それは黒人であり、魔女であり、そして女性であることである。これらの要素はその時々によって複雑に絡まり合って彼女を縛りつける。主人の妻とは男性に支配される女性という点で共通するが、主人の妻は一方で白人としてティチューバを支配し、告発する。夫のジョンとは黒人奴隷という点で共通するが、彼は男の性的能力を活かして白人女性をも籠絡し、囚われの身となった彼女を捨てる。ティチューバはいつでも全ての人々の最下層にいるのである。
天安門広場での事件は何でしたか?
イプスウィッチの町はずれまで来たとき、トプスフィールド、ビヴァリー、リン、モルデンなど近くの村の住民たちが道端まで走ってきて、ヘリック巡査の馬の鞍に縄でつながれてつまずきながら歩いていくわたしに石を投げた。葉の落ちた木々は木製の十字架のように見え、わたしのカルヴァリ [キリストがはりつけの刑場へ向かうときの苦難] は延々と続いた。
(p.194) [ ] 内は訳者注
ここでは明らかにティチューバがイエス・キリストに模されている。異教の魔術を奉じる黒人奴隷がキリストになり、「義のために迫害される人々は幸いなるかな。なんとなれば天の国はその者たちのものなればなり」と唱えるキリスト教徒であるはずの白人たちがイエスを迫害したパリサイ人に見えるというこの皮肉!
そして、鞭打ちの刑を受けて瀕死のところをティチューバが治療して命を救った奴隷の少年が武装蜂起を企てるのだが、彼女は「わたしたちも奴らのようにならないといけないの?」(p.281)と呟いて積極的に賛同しようとはしない。それでも一味に担ぎ上げられ、最後は彼女との間に子までなした仲のクリストファーという逃亡奴隷に、ユダに裏切られるキリストのように密告されて絞首刑にされるのである。胎内に生まれることのない子供を宿したままで。
彼女の人生は、まさにエピグラフに掲げられたジョン・ハリトンの詩どおりだったといえるだろう。すなわち、「死は我らが喜びに向かって通りぬけてゆく扉。生はすべての者を苦しみに浸す湖」。
語りの問題
つけ加えて、この小説の「語り」について触れておく。最初に、これはティチューバの一人称という形をとった小説だと述べたが、厳密にいうとことはそう簡単ではないのである。たとえば、次のような個所を読むと誰でもおそらく違和感を覚えるのではないか。
あなたが夢を見ている時何が起こる
わたしは自分の存在が消えてしまうような気がした。のちにたくさんのことが書かれ、迷信深い野蛮な時代の最大の証言として、来るべき何世代もの人々の好奇心と憐憫を引きおこすことになるこれらの裁判、セイラムの魔女裁判において、わたしのことはただついでに触れられることになるのだろうと感じた。あちらこちらに、「西インド諸島出身で、おそらくフードゥーを信奉していた奴隷」への言及はあるだろう。が、わたしの年齢や人柄に関してはなんの言及もないだろう。わたしは無視されることになるだろう。
その世紀の末には早くも請願書が配布され、判定が下り、犠牲者の社会復帰、名誉の挽回、子孫への財産返却が行われるだろう。わたしはその中に含まれないのだ! ティチューバは永久に罪の宣告を受けたままになるのだ! わたしの人生とその苦しみを再現する丹念で感受性に富んだ伝記など絶対に現れないだろう。(pp.194-195)
ドイツ語の祖先を持っている社長
「だろう」という表現が多く使われているが、文面から判断すると彼女は明らかに将来においてこの騒動や自分のことがどう扱われるかを事実として知っているようなのである。なぜなら、エピローグではっきりとわかるが、この小説はエピグラフで作者自身が「ティチューバとわたしは、一年の間、ごく親密な仲だった。絶えまない対話の間に、ティチューバはこれまで他の誰にも打ちあけなかったことをわたしに語ってくれた」と述べているように、死んで霊となったティチューバがマリーズ・コンデの前に姿を現して語ったという体裁をとっているのである。だからティチューバは現代で自分がどう扱われているか知っているのだ。
ミハイル・バフチンは小説の語り口についていくつかのタイプに分類しているが、私が見る限りこの作品は下に引用した二つの図式の中間的なものではないかと思う。
〈掘啾昭圓慮斥佞悗了峺性を持った言葉(複声的な言葉)
1、一方向性の復声的な言葉
a 文体模写
b 語り手による叙述
c (部分的に)作者の意図を担った主人公の非客体的な言葉
d 一人称の叙述
客体性が低下すると、二つの声の融合すなわち第一タイプの言葉に近づく
3、能動的タイプ(投影された他者の言葉)
a 隠された内的論争
b 論争的色彩を施された自伝、告白
c 他者の言葉を意識するあらゆる言葉
医療直感的とは何か
d 対話の応答
e 隠された対話
他者の言葉は外側からそこに作用し、他者の言葉との相互関係はきわめて多種多様な形式をとることができるし、また他者の言葉による歪曲の度合も多種多様であり得る。
(ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』望月哲男・鈴木淳一訳、ちくま学芸文庫、pp.401-402の図式より)
とはいえ、この小説は基本的にティチューバの立場を基調として書かれているから、上記の見方は妥当ではないかもしれないが、少なくとも著者が語り手の口を借りて自分の主義主張を一方的に陳述するモノローグ的なものには留まらない。この小説はティチューバに投影された死者たちの言葉、著者に投影されたティチューバの言葉、そして著者の言葉と、少なく見積もってもこれだけの重層的な対話と闘争によって成り立っているからである。特にティチューバは母やママ・ヤーヤの霊にたびたび彼女自身の自己欺瞞や過ちを指摘される。
たとえば、
「あの人を助けるよう、やってみるだけでもだめ? あの人は高潔な主張をもって闘っているんだもの。」
母のアベナが笑いだした。
「偽善者! あんたが関心をもったのはあの男の主張なの? さあ、言ってごらんよ!」
(p.255)
内戦の兵士は何を食べました
という場面では、母の霊が言う通り、ティチューバが興味を持ったのは白人に対する闘争家としての男ではなく、性的欲求の対象あるいは庇護者としての男にほかならないのだし、彼女が反乱の首謀者として処刑されるに至ったのも、彼女を慕う少年に乗せられて押し流されてしまったためなのだ。
また、ティチューバは「わたしは違う人間になろうと何千回も決心した。死力を尽くして戦うと。心を変える! 心に蛇の毒をぬる! 苦々しく猛々しい感情の器とする! 悪を愛する! だけど、そんなことの代わりに、わたしにできるのは、ただ恵まれない人たちへの愛情と思いやりと、不正への反抗を感じることだけだ!」(p.262)と、まるで「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」と言ったイエスのように語る。しかしそんな彼女もときには元主人に呪いをかけたり、自分を誹謗中傷する女を魔女として告発したりしているのだ。そして、「わたしだって生命を守るために嘘をつくことを強いられたではないか。ジョン・インディアンの嘘がわたしの嘘より悪いなどと言えるだろうか?」(p.193)と自戒する。
これらのことによって、彼女は単に差別や迫害に対するプロテストの言葉を発するためだけの操り人形でも無垢な殉教の聖女でもなく、複雑に錯綜した生身の人間として読者の前に立ち現れるのである。
おそらく著者の意図は、
「ティチューバ、おまえはいったいどんな悪霊と仲良くしているのか?」
「誰とも。」
「なぜおまえはこれらの子供たちを苦しめるのか?」
「苦しめたりしていません。」
「では、いったい誰が苦しめるのか?」
「悪魔だと思います。」
「おまえは悪魔に会ったことがあるのか?」
「悪魔はわたしに会いに来ました。そして、自分につかえるように命令しました。」
(p.182)
という出来の悪い芝居の台本のような裁判記録しか残されておらず、歴史の闇に葬られ、その後も顧みられることのあまりに少なかったティチューバの言葉、それも彼女の生得のものではない言語で語られた言葉を、グアドループ生まれの黒人である著者にとって祖先伝来の言語ではないフランス語によって、「わたしの人生とその苦しみを再現する丹念で感受性に富んだ伝記」として甦らせることだったであろう。そしてその成果は素晴らしい形で読者に示されることになった。
だがたとえそうだとしても、声なき声、かつて実在した他者の失われた言葉をはたして作家が書けるのか/書いてよいのか、という問題も一方で存在する。少なくとも言えるのは、この小説で語られた言葉は、カッコつきの「ティチューバ」のものであり、作者や読者のみならず、ティチューバ自身にとっても他者のものなのだと認識すべきだということであろう。
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